--お互いそんな調子でも、やっぱり音を合わせたときはクるものがあった?
HAYATO「う~ん……ビッとこなかったなぁ(笑)。いや、うそうそ。単純に上手だなって思った」
INOMAN「うん。すっごくやりやすくてビックリした」
--で、いきなりインドネシアツアーMEANING is ready to FUCK the WORLD TOURだったんですよね。
HAYATO「あれはゆうちゃんとどのタイミングで発表しましょうかって話をしてて。“高田雄一加入の最初のライブはインドネシアです”“ズコーン!”みたいな感じにしようって……」
--“気軽に行けねぇよ!”っていう。実際どうでした?
YUICHI「うる覚えの状態だったからいろいろめちゃくちゃでした。やりながら曲を把握していって」
HAYATO「でも最初が海外だったからこそ打ち解けられたというか、仲良くなったよね。言ってもゆうちゃんはおじさんというか、YOKKUNと10個くらい違う。そんなに年の離れた人と何かをやるって大変だと思うんだけど、最初からぎこちない感じはなかった。ゆうちゃんのライブのスタンスもちょうどよかったんだよね。前に出すぎる前でもなかったし」
--YUICHIさんが加入してから、注目度が上がってお客さんがどんどん増えていきましたよね。
HAYATO「当時は……俺やYOKKUNは、それに対してヤキモキしてたところがあった。何かを言うわけではなかったけど。知らないお客さんがたくさん来るし、いきなりいろいろなイベントに声をかけてもらったりするようになるし」
--今考えると良いことではあるんだろうけど、当時は戸惑いもあったと。それが2009年で、2010年11月にはPIZZA OF DEATHから待望の1stアルバム『BRAVE NEW WORLD』がリリースされます。
HAYATO「リリースが決まってレコーディグして、実際に1stアルバムを出すまでめちゃくちゃ長かったんだよね。半年……いやそれ以上だったのかな? 発売前にPIZZA OF DEATHのコンピレーション『“The Very Best of PIZZA OF DEATH II”』に出させてもらったり、Ken さんの“DEAD AT BAY AREA”(神戸国際展示場、幕張メッセ)に声をかけてもらったり、いろいろあったんだけど」
--“DEAD AT BAY AREA”はどうでした?
KAWAGUCHI「はじめての幕張メッセは目から鱗だったな。だってライブが終わってギター置いたら……自分で片づけなくていいんだよ? 片づけてもらえるんだよ。スタッフのひとが後ろにはけてくれるからさ」
--そういう喜び?(笑) ステージに立った時はどんな気分でしたか。
HAYATO「すごかった。あれはちょっと異常だった。だってそれまでは人がいっぱいいるっていっても400人とか500人とかで。で、神戸の“DEAD AT BAY AREA”で5000人、幕張で10000人の前に出ていって……10000人がどれくらいか、よく分かってなかったよね。でもあのとき“MEANINGって意外とちゃんとできるんだな“って思った記憶がある」
KAWAGUCHI「ああ、そうだね。ステージ出ちゃえばいつも通りというか」
HAYATO「でもYOKKUNがすごく緊張したよね」
INOMAN「俺も緊張してた。そしたら楽屋でゆうさんに“うわ、ちっさ!”って言われた」
YUICHI「そうだったっけ」
--(笑)PIZZA OF DEATHに入ってMEANINGの気持ち的に変わったところはありましたか?
HAYATO「基本的なところだけど“お金を出してくれる人がいるから、もういい加減なことはしちゃいけないよ”って話をみんなにしたかな」
--プレッシャーもあったんでしょうが、PIZZA OF DEATHから出せる喜びみたいなモノも感じていました?
一同「(頷きながら)あった」
INOMAN「それもあったし、俺はちゃんとしたCDなんて出したことなかったから、MEANINGのCDが並んでいるのを見たとき純粋に嬉しかった」
INTERVIEW BY 逆井マリ
Vol.3 へ続く