――アルバム制作の経緯を振り返ると、実はこれ、ドラムチェンジの一発目の作品ですよね。
「そうなのよ。そこは他のインタビューで全然訊かれないんだけど、実はそうなの」
――改めて聞きますけど、ガンちゃんこと石田さんはなぜ辞めちゃったんですか。
「ガンちゃんは、なんか、やりたいことがあるって言ってて……今は何してんだろう(笑)。もともと彼は大阪でも洋服関連の仕事してた人で、そっちをまたやりたくなったみたい。まぁ時代が時代だから上手くいかないことも多々あるのかもしれないけど、今はそっちで頑張ってるんだと思う」
――オリジナル・メンバーだし、辞めると言われた時はやっぱりショックでした?
「や、以前から、音楽的な部分でもバンド内が3対1になっちゃってて、言い方悪いけどタイミングだったと思う。バンド一緒にやってると、お互い傷つけ合うこともあるし喧嘩することもあるんだけど『これで普通の友達に戻れるよね』つって。それくらいスンナリ、ポジティヴに受け止めたのかな」
――そこから新加入した松浦英治さんは南さんの紹介で。これもスンナリ決まったんですか。
「実は、他にも何人か試したドラマーがいて。その中で、メンバー三人で話して一番欲しいタイプのドラマーがまっちゃんだったの。すごくドラマーっぽいタイプだし、もともとオルタナ系というかヘヴィ・ロックが好きな奴だから、ヘヴィなビートも叩けるし。すごく可能性のあるドラマーだと思ってる」
――彼が入ってからKEN BANDの雰囲気はどんなふうに変わりましたか。
「あぁ……でも彼が入ったのは昨年の2月でしょ。その直後に震災があって、俺たちはもうなりふり構わずツアーに出ることになって、本人も混乱しながら、ワケもわからずついてきてた部分があっただろうね。しかも僕の10コ下だし、入ったばっかりの人間をそこまで振り回しちゃうことに罪悪感はあって、すごく気を遣ってた部分があったの。でも途中から、そうやって気を遣ってる自分のことを自分でアタマきはじめて、そこにうまく座ろうとしてる松浦にもアッタマきて(笑)。そんで『俺は今日からお前のこと追い込みかけるからな!』って宣言して、付き合い方ガラッと変えて(笑)。そこから新作作りに入っていった。だから、まっちゃんが入ってKEN BANDの雰囲気がどうっていう話でもないんだよね。どんなことがあっても僕らは、目の前のことをプラスに変えてかなきゃいけないわけだから」
――では、ステージに出ていく時の感覚は、震災以降変化しましたか。
「すごく変わったと思う。これは東北に限った話じゃないんだけど、やっぱ日本中が怖い思いしたと思うから。……言葉にするとあまりにも馬鹿っぽいんだけど『オレ来たから大丈夫だぜ!』みたいな感じを、すごく見せてあげたくなった。少なくともライヴハウスに来て、音を浴びて存在を感じたいと思ってるお客さんにとっては、その空間こそが救いだと思うの。救いであり居場所である。そこを自分でもしっかり出したくなったかな。それまではね、悪い言い方しちゃうとシステムに乗っかってた部分があって」
――システム?
「ツアーが決まってブッキングをしました、チケットの発売日が決まりました、お客さんがそれを買いました、僕たちはその日が来たら現地に行ってライヴをします、と。もちろんそれだけではなかったけど、当時はそういうシステムにどこか乗っかってた気がして。今はもっと……気持ちがこもってる、って言うと平たい言葉だな。もっと特別な気持ちをもってやれるようになった」
――その『オレが来たから大丈夫だ』っていう気持ちは、たとえ嘘でもいいから自分は彼らの希望であるべきだと言い聞かせる必要があった、ということですか。
「そうだと思う。僕がお客さんだったらそうして欲しいと思うの。なんか怖い思いして、それでも生活のために四六時中仕事とかしなきゃいけないし、仕事失った人は仕事探さなきゃいけなくて。それでもライヴに来たら……やっぱ、本気で『ウォー!』って言いたいでしょう。改めてライヴってそういう場所なんだって気づかされた。昔からそうだったんだけど、もっともっとその自覚が強くなって。前はちょっと照れ臭くて隠してた部分もあったと思うの」
――ヒーロー視されるのを、ことさら嫌がる性格ですからね。
「そう。そうなの。でもその照れがもう必要なくなった。それって人から見たら180度くらい違うことなのかもしれないけど、案外、自分で壁一枚破ってみたらそうなってたというか」
――ただ、健さんだってずっと強くあり続けられたわけじゃないですよね。コラムにもあったけど、ステージ上で号泣したっていう話。
「あれねぇ……震災一ヶ月後の盛岡でのライヴだったんだけど。それまでライヴはずっと明るく振る舞ってたの。あえて明るく盛り上げてたんだけど。ただ、盛岡は沿岸の被災地じゃないにせよ、一時期はライフラインもダメになって街そのものがものすごく深刻なダメージを受けてた。そこで音楽を鳴らす僕らの前には、本気で怖い思いをした連中が目の前に何百人かいるわけでしょ。しかもライヴ前に震度5くらいの余震があったの。俺もいくら明るく振舞おうと、単純に不安になるよね。で、ホテルの部屋でブルーハーツのファーストを聴いたりして、自分もそのアルバムに救われて。そういうバックグラウンドがありつつ、ステージではいつものように軽快にライヴを進めていったはずが……やっぱり後半になって「Punk Rock Dream」をやった時かな、俺は本当に希望を歌っていて良かったなぁって思い始めたの。お客さんだって希望を求めて来てくれるし、熱も全然違う。震災から一ヶ月しか経ってないのにバンドが来てくれたっていう、もう何かにすがるような形相があって。それを見てると、俺は本当に希望を歌い続けて良かったって、あの曲の歌詞が自分の中にガンガン入ってきちゃった。あと「Let The Beat Carry On」とかね。“何があっても続けていこう、繋げていこう”って、本来別のことを書いた曲なんだけど、違った意味を持って自分の中に還ってくる。もう……涙がボロボロ出て、歌うどころじゃなくなっちゃった。でも理屈じゃなかったんだろうな。なんで、とかじゃなくて、音楽ってもしかしたらそういうもんなのかもしれないっていうのがその場ですごくわかって」
――あぁ。なるほど。
「昔、俺も経験あるの。震災とは全然関係ないけど、好きなバンド見に行ってピットで大暴れして、英語の歌だからよくわかんないけど一緒になって歌ってたら、ワケもわからず涙出そうになるっていう。そういう記憶とかも全部ガーッと自分の中に入ってきちゃって……もう人目はばからず泣いた。ちょっと涙がこぼれました、とかいうレベルじゃないの(笑)。『ワァーッ!』って泣いたもん。終わった時は恥ずかしくて楽屋帰ってからメンバーに謝ったぐらい(笑)」
――「Let The Beat Carry On」でグッと来るのはよくわかるし、逆に、『FOUR』の曲は当時の感情とズレが生じるものも多かったのかな、と思います。
「あー、さすがに「Your Safe Rock」ぐらいになるとちょっと響かない気はしたかな。それで今の気持ちをもっと的確に歌いたいとも思ったし。もちろん「Punk Rock Dream」や「Believer」、「~Winding Road」、あと「How Many More Times」とかね、自分の人生や希望を歌った歌が別の意味をもって自分の中に入ってくることはいっぱいあったんだけど。でも、震災後を捉えた希望を鳴らしたかった。もっと言うと絶望というか、この現実をちゃんと捉えて、等しく怖い思いをした人たちの前で一緒に鳴らせるものがあったらいいのになぁと思って」
――ただ、そうは思いつつも、ツアー中は曲が作れなかったと。
「そう。そんなこと初めてだった。今までも曲作り期間っていうのは多少あったけど、だいたいアルバムの核になるような曲はいつもツアー中にポロッと書けてたの。あと何曲か必要だね、じゃあ腰据えて作りますか、程度の話で済んだんだけど。今回はもうまったくアイディアが湧いてこない。湧いては消えて湧いては消えて……だから本当言うと湧いてこないわけじゃないんだけど、湧いてくるものはどれも今の自分とちょっと違う。本当はこういう気分じゃないんだよなぁって。だから、その気分を探り当てるために休みが必要だったのかもしれない。音楽的にも歌詞のテーマでも、ほんとにどこから手をつけていいものかわかんなくなっちゃって」
――けっこうシリアスな状態?
「酷い気分だった。もう完全に追い込まれてた。ライヴ活動を止めたのも『これからそういう期間設けますよー』っていうライトなノリじゃなくて。『あれぇ……ちょっと……ライヴ一回止めないと……もう作れないわ』みたいな。宣言した時はピザ・オブ・デス全体がまずい雰囲気になっちゃったくらい。もうピンチだったもんね。俺社長辞めます、引退です、って言い出すぐらいの感覚で。それが去年の11月とか」
――そのヘヴィな気分は、いつ頃から上向きに変わっていくんですか。
「いや……結局最後まで上向かなかったんじゃないかなぁ。二ヶ月くらいでグワーッと書いたし、ものすごいテンションで作っていったんだけど……家族にすごい迷惑かけたと思う。八つ当たりされまくって。あと意味もなく朝まで起きてるわけ。カッコつけた言い方すると何が降りてくるかをずーっと待ってるの。でも傍から見れば何もしないで呆然としてるダンナを、毎朝見かけてるわけね、カミさんは」
――あぁ……それはイラッときます(笑)。
「もちろん『わかってくれ、今俺こんな感じでしか作れないんだ。夜中起きてなきゃダメなんだよ』って説明したけど……でもカミさんは夜中ずっとツイッターでキャッキャしてるとしか思えなかったかもしれない(笑)。かと思えば嬉々として『今日こんな曲書いたんだ、こんな感じ!』とか言い出して。うん、可哀想だったなぁと思う」
――過去にない精神状態だったのは、意識的に傑作を作る必要があったんだと思いますよ。前の延長でどうっていうものでは納得できなかった。
「そうなのかもしれない。これ全部できなきゃもうライヴは始めませんよっていう心構えでやらないと気が済まなかった。本当に言いたいことをしっかり並べて、腰を据えてやる必要があったんだろうな。だってコードを並べれば曲はできるし、なんとなく思いついたことを書けば詞にもなる。でも、それじゃ嫌だった。なんか自分を止めることで、すごく特別なものを作り出したいって思ったのかもしれない」
――あと、昨年からはハイスタも動き出したじゃないですか。「もうハイスタやればいいじゃん」「三人で次作ればいいじゃん」っていう声、たくさんあったと思うんですよ。そこでKEN BANDの存在は危うくなったと思うし、なぜこの体制で続けるのか自問自答も必要だったと思う。
「うん、それは確かに。でもね、ハイ・スタンダードは11年間休んでたバンドであって、KEN BANDは今年で8年、自分がずーっとやってきたことだから。当然今の気分に近いし、自分の意見や自分の音を一番素直にアウトプットできるところ。だからハイ・スタンダードがこの先活動するとしても、これは自分にとってすごく必要なアウトプットだと思う。そういうことを考える時間にもなったのかな。ソロというかKEN BANDで続ける理由を、ちゃんとその時期に理解できたのかなって思う」
――そうして完成したこのアルバムを、今、自分ではどう感じていますか。
「うーん……震災があって原発事故があって、いろいろ日本が揺れる中で、自分が言いたいこと、歌いたいことというより人前で言いたいことを、ちゃんと詰め込めたアルバムになった。あとはもうリリースしたらお客さんにどう受け止めてもらってもいいです、っていうものができたかな」
――最高傑作だと思いますよ。音よりも何よりも、横山健という人間がドンとリスナーの心に入ってくるアルバム。
「もう、ほんとそうだったらいい。今回はもう音じゃない。音楽だから音なんだけど、音じゃないよね、うん」
インタビュー@石井恵梨子
photo by Teppei Kishida
Vol.2へ続く