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『横山健の別に危なくないコラム』

Vol.105

「もはや」

どこから書き始めていいのだか見当もつかない。今回が Vol.105。前回の Vol.104を書いたのが2020年の9月、1年以上前になる。この時はエレファントカシマシのシンガー、宮本浩次さんとの作業についてを猛烈な熱量で書いたのだが、Vol.103から1ヶ月程度でポストした。しかし Vol.103自体が1年半ぶりの更新で、冒頭で大きなインターバルが空いてしまったことについて触れている。この3年弱の間に3つしか更新していない。誰に頼まれて書いているわけでもないので謝る相手もいないのだが、やっていることがこんなにルーズになっていくのは、自分が辛い。

このコラムを始めたのは、僕の記憶が正しければ2002年。その頃は文章を通じて自分の意見/気持ちを発信するのが楽しく、皆さんの反応を得るのも楽しく、文章も短く、一月に2回更新したりもした。「僕の記憶が正しければ」と書いたのは、パソコン内に保存してある過去のコラム、特に古いものは文字化けしてしまっていて読めなくなっているからだ。Vol. 1を投稿した日付の確認すらできない。どなたか文字化けの修正法をご教示いただけないものだろうか。

Vol.80を超えた2014年、反応の大きかったものを中心に抜粋し書籍化していただいた。「横山健 随感随筆編」というタイトルがつけられている。この頃からだろうか、更新の頻度がグッと落ちた気がする。

書籍化されるくらいだからある程度注目もされていただろうし、実際にされている感覚もあった。書くという行為は言語化と近く、ぼんやり考えていることも文字にすることでその思考も明確になる。それも自分にはとても良かった。文章を書いて発信することによって、自分の意見をしっかり固めていたようなものだ。そしてなにより、「書いて発信する」ということを純粋に楽しんでいた。

どうしてペースダウンし、果てには年単位で書かなくなってしまったのか。

当然モチベーションの低下ということになるのだが、どうして書くこと、ひいては自分の意見を発信することへのモチベーションが低下したのか。

実はさっぱり何も書いてないわけではない。「ギター・マガジン」というギター専門誌に月一でコラムを寄稿しているし、Ken Yokoyama オフィシャルホームページで展開中の、自分の所有するギターを紹介していくコーナー「Guitars」にも、更新頻度は多くないながらも、ある程度長い文章を投稿している。しかし両方ともギター中心の話なので、専門用語を多用したマニアックな話に終始してしまうことが多い。そこから僕の政治的意見や日常のスタンスなどは漏れない。いまはそれをしていればいいかと思っている自分の姿が、俯瞰で見える。

それにしても、あのモチベーションはどこへいったのか?

僕も Instagram と Twitter をやっていて、あまり頻繁ではないが投稿をする。チェックはよくするのだが、そういった SNS である程度世の中の事件/事象や、周りの友達バンドマンの活動や思いなどが見えてくる。軽いチェックのつもりが、入ってくる情報はそういったことに加えて、ある個人の政治的信条、誰かが行った場所、なにを撮ったんだかわからない写真、暇だという愚痴。もうこれでお腹いっぱいになる。そこにわざわざ自分の情報を投下して参加する気に、近年の僕はならない。

SNS ではなくても、ほぼ似たようなことが言える。ネットニュースを読んでいると、ものすごくためになる文章や、なるほどと納得させられる文章、今後実践してみようと思わされるようななにかの解決法など、膨大な量の文献が多岐にわたるサブジェクトについて書かれて投稿されている。それに併せて、文責もなくタイトルで読み手を釣るような下らない記事。玉石混交の様相を呈している。とにかくキャパオーバーな量の情報を毎日摂取していると言える。やはりそこにわざわざ「僕はこう思う」「僕はこういうことをした」と、自分の情報を以って参加する気に、近年の僕はならない。

人の情報に触れすぎて、自分の情報を発信することの意味を見失っているのかもしれない。

本当言うと、したいのだ。参加したい。僕は生来目立ちたがり屋で、発言するのが好きなはずなのだ。

目に見えない人混みに流されて、気力と体力が奪われ、浮かぶ木の板に捕まりボサーッと視界から何もかもが消えるのを待っているかのようだ。

我ながら可笑しいが、この文章も「そんなことじゃいけない!」と自分に言い聞かせ、なにかを振り絞るように書いている。

僕は音楽家で、ギタリスト/シンガーで、舞台に出て演奏して食ってきた人間だ。本来情報を出すことがとても大事な人間だ。怠ってしまっている。良くない。必要以上の情報を出す必要はまるでないと思うのだが、最低限ですら「もんげー」で済ませてしまっている。非常に良くない。良くないがそうなってしまった。

現にこの1年の間に、Ken Yokoyama は様々な動きをした。まず7枚目のフルアルバム「4Wheels 9Lives」をリリースした。たくさんの人に聴いてもらいたいと思ったが、このコラムで紹介することはなかった。

4月にバンド初の配信ライブをした時も、なぜやろうと思ったか、僕達らしいやり方とは一体どういうことなのか、その経緯を細部まで文章にして詳らかにするのが僕のスタイルだったはずだ。しかしこのコラムでそれも書くことはなかった。

5月、実に6年ぶりに「MUSIC STATION」に出演させてもらったのだが、そこで起こったハプニングや他のミュージシャンとの交流など、これも書かなかった。

コロナ禍での弊社主催のフェスティバル「SATANIC CARNIVAL」にも参加したが、なぜ今年は開催が必要だったか、ステージから見た風景はどんなものだったか、書かなかった。

今年の初めに、自分にとっては3人目の子どもが生まれたことも書かなかった。「そういったことを正直に伝えると、思った以上に家族思いと受け取られる」と学習した。子どもの誕生日も性別も名前も明かさないが、1才にもならない赤ん坊と、妻とちち丸と静かに暮らしている。

このコロナ禍でライブ活動もままならない中、ミュージシャンとしてその時々の思いを吐露しようとも考えた。それがもしかしたらもっとやり場のない思いを抱えている、もっと焦っている若いバンドマン達に一定の指針を与えられたりするかもな、とも考えたが、やはり書かなかった。

自身の「4Wheels 9Lives ツアー」を夏場に東名阪だけ演ったのだが、これもなぜその3都市だけなのか説明したかった。どういったコロナ対策を布いてライブを成立させるつもりなのか、事前に皆さんに伝えて「それならば安心して行けるかも」と思ってもらいたかった。でもそれも書かなかった。

キャンセルになった Cornelius の代打として出場した「FUJI ROCK FESTIVAL 2021」についてなどはまだ記憶が新しいので書けないこともないが、余計なことを書いてしまいそうなので、書かない方がベターだと思う。

上記したような様々なトピックスを文章にせず、スルーしてしまった。

書いてて確信した。僕は情報摂取疲れしている。そこに自分の情報をわざわざ放り込まなくてもいいのではないかと躊躇している。

なんとも情けない話ではないか。あんなに楽しくやれていたことに疲れるとは。長い人生にはいくら好きなことに対しても、どんなに刺激的なことに対しても、こういうことは起こり得る。それにしても我ながら情けない。

ここはひとつ気を入れ直して、更新の頻度を上げていきたい。

こんなに発起してもいつまで続くかわからないが。

 

Ken Yokoyama 2度目の配信ライブより。Photo by Teppei Kishida
「Ken Yokoyama 2度目の配信ライブより。Photo by Teppei Kishida」

 

 

「おじさん構文」

ある日ぼんやりと SNS をチェックをしていると、見慣れぬ言葉が目に飛び込んできた。

「おじさん構文」?

おじさん構文とはなんぞや?

おじさんとしての自覚がバッチリある僕は、「おじさん」を含んだ単語にはどうしても反応してしまう。おじさんとはいつの時代も蔑まれる対象だ。「おじさん構文」もいかにもおじさん世代、つまり我々世代の行動/発言を揶揄した言葉だと容易に想像がつく。

僕は調べてみた。するとある出来事が出てきた。元アイドルの20代女性がラーメン店を出店し、その店でラーメン評論家の入店をお断りするという揉め事が起こったようだ。「そんなものを読んでいるから情報摂取疲れするんじゃないか」と言われそうだが、おじさんがどのように蔑まれているかは僕にとっては他人事ではない。把握する必要がある。この揉め事、ご存じの方も多いだろうが、ご存じない方のためにもう少し説明したい。

経営者である20代女性の元アイドルの方が突然「ラーメン評論家の入店お断りします」と Twitter に投稿したのが9月24日。投稿の理由は「多くのラーメン評論家が私に対してセクハラや中傷、嫌がらせをしてきた」からだ、とのこと。

僕はラーメン業界のことは一切わからないが、日本中にラーメン好きが物凄く多く存在するのは知っている。ある種の資料や指標のようなものもあったら有益であろう。ある人が日本中のラーメンを食べ歩きして「ラーメン評論家」として発信し、発言内容がラーメン愛好家の信頼を勝ち得たとするならば、彼の発言はラーメン愛好家にとって指標となり得るだろう。どうやらそういう「ラーメン評論家」はたくさん存在するらしい。そしてラーメン店と「つかず 離れず」の関係を保ち、お互いラーメンを愛する立場の者として共存し、ラーメン業界を盛り上げてきたという背景があるようだ。まぁどこの業界にもある話といえばある話だ。

その女性経営者の投稿には、人物の特定がされていなかった。「誰が原因か」という点に言及していない。するとあるラーメン評論家、仮に H氏としておこう。H氏が自身のブログで「それ、僕です」と自ら名乗り出たのだ。そのブログは「女性経営者に対する意見」として投稿されたもののようで、マスコミも取り上げたために注目された。

その H氏の意見投稿の文書スタイルが「おじさん構文だ」というのだ。

これは僕も H氏のブログをチェックしなければならない。そして「おじさん構文とはなにか」を把握しなければならない。

読んでみると……僕はもちろん H氏のことは存じ上げなかったし、ましてや何の恨みもない。しかし文体がとんでもなく気持ち悪い。なんて表現すればいいかわからない、とにかく軽々しくて、最高に後味が悪い。揉め事の真偽は当事者にしかわからないが、この文章では仮に正しい意見/主張だとしても、誰もそうは受け取ってくれない。「これじゃ炎上するよね」というのが正直な感想だ。それくらい僕は嫌悪感を抱いた。

そしてあることに気がついた。「僕の書く文章に似ている」と。軽く血の気が引いた。

僕は H氏の当該文章を分析してみた。そしていくつかの類似点を発見した。

① 草を多用する。

② 自分でボケ/不謹慎な物言いをしておいて、カッコを使って自分でツッコミ/フォローをする。

③ 適度に下ネタを散りばめる。

④ 自分の心情/心境や行動をやたらと説明する。

⑤ 長くて、軽々しく、不謹慎。

近年のこのコラムは僕にしては堅い文体で書いている。しかし先述したギター関連の文章は、思いっきりこれらを駆使して書いてしまっている。Instagram もそうだ。④については、自分発信で文章を書くなら自分語りが中心にないと体を成さないので必要不可欠なのだが、どうも文体自体のネチッこい温度感というか、最終的には自分が持っていきたい感というか、そんなようなものが共通している気がする。

「H氏ってもしかして、僕の文章に影響されてこういう文を書くようになったのかな?」と疑ってしまうほど、似た匂いがする。いや、もしそうならまだいいのだが、恐らくそんなことはないだろう。だとしたらこの類似点の多さ、天文学的確率といえる。そして僕が H氏の文章に嫌悪感を抱いたように、誰かが僕の文章に嫌悪感を抱いている、そう思うと涙目にならざるを得ない。参考として書いておくが、H氏は54才、僕は52才。同世代だ。

さて「おじさん構文とは」という点だが、調べてみると元々は LINE から発生したらしい。

① 絵文字や顔文字、赤いビックリマークを多用する。

② 不自然な句点、読点の使用が多く、文章は長い。

③ 語尾にカタカナを使用。

④ 若い女性に対して下ネタ、あるいは下心を含んだ内容のものを送る。

付け焼き刃の調査で不完全感は否めないが、こんなようなことが代表例として挙げられるらしい。

しかし H氏のブログの文章からは「おじさん構文」に当たる点は発見できない。僕も自分の書く文がそうであったことはないはずなので、僕の文章もおじさん構文ではない。

とは言え飽くまでも「前提が LINE での文章」なので、赤いビックリマークなどがブログのフォーマットに装備されていないだろうし、それは当てはまるわけはない。

当てはまらなかったら不問に付されるかというと、それはその限りではない。恐ろしいことに、むしろ若い人達は上記したことを文中で使用しているかどうかよりも、H氏のブログにおける発言やスタンスから「存在自体が圧倒的におじさん構文」感を感じ取っているのではないだろうか、と推測できる。わかりやすくいうと、H氏は「歩くおじさん構文」なわけだ。これは表現が少し意地悪だろうか。しかし概ねこういった感じを嗅ぎ取られ、嘲笑され、炎上しているのだと思う。

僕は Ken Yokoyama の練習スタジオでメンバーにも苦しい胸の内を明かした。「もしかしたら自分の文体がおじさん構文かもしれないんだ」と告白し、H氏の例のブログも読んでもらった。Jun ちゃんは笑いながら「確かに似てるっちゃー似てるけど、まず話の背景が違うから別物なんじゃない?あちらは謝るべきところなのにああいう軽い文章書いちゃってかわそうとしてるんだからさ」と慰めてくれた。えっくんは「……えー、なんともいえないなぁ」と苦笑いを浮かべ、巻き込まれたくない姿勢を打ち出した。ミナミちゃんは「でも事実おじさんなんだからさ、しょうがないんじゃない?」一番芯を食うことを言った。そうなのだ、僕はおじさんなのだ。

文章とは微妙に世代感を隠せないものなので、僕も自覚なく「歩くおじさん構文」している可能性は充分にある。

ひとまずおじさん構文の正体も明かしたし、「僕はおじさん構文を使っていない」という結論にも達した。しかしホッとしている場合ではない、もっと大きな問題を解決していない。

「僕の文と H氏の文に多く類似点が見られる点」、これの方が僕としては由々しき問題だ。

解決法はある。文章の類似点として挙げた①から⑤をしないように心がける、これが一番合理的な解決法だ。事実このことが発覚してからギター・マガジンのコラムを一度書いたのだが、そこでは修正されているはずだ。もしかすると読者からは「今号はテンションが低いな」と思われるかもしれない。そうではない、草を生やすことや自分でボケて自分でツッコむ文体を取り下げただけだ。

正直惜しい。草を手放すのは非常に辛い。あれが一番自分の気分や口調をしっかり文字化できている気がするからだ。特にギターに関する文章など、専門的であるが故に読む人も限られているからいいでしょ、という意識もある。それにギターに関することくらい、自由に楽しく書きたい。しかしそこに甘えると、僕の文章は H氏の文章と同次元まで墜ちることを意味する。何故なら、友達に宛てて書いているわけではなく、公に書いているからだ。

このコラムだって慎重に慎重を重ねて書いている。先述したように④については酌量の余地があると考える。自分語りしないとそもそもの存在意義すらないのだから、これはしょうがないといえる。ただその温度感には慎重になっている。もっと言うと、臆病にもなっている。ヘマをしないように臆病にもなっている。

それくらい H氏の文章は自戒を与えてくれたのだが、僕の思考はそこでは止まらず、もうひとひねり考えた。「ヘマをしないように臆病になっている」とはどういうことか。つまり、気を抜くと H氏と同程度の文体になってしまうことの裏返しではないか。自分に対しての揚げ足取りや言葉遊びかもしれないが、そういった感覚は確かにないことはない。いや、ある。つまり責任を自分に向け、考えを一皮剥くとそういうことなのだ。

こうなると、朧気ながら見えてきた着地点から目を背けるわけにはいかない。

つまり「僕と H氏ってそもそも、人としてかなり似ているのではないか?」

わからない、わからない。これはもうわからない。繰り返すが H氏とは面識もないので、どんな人柄かも想像がつかない。身近にいたら最高におもしろい、愛すべき良い人かもしれない。或いはあの文体が現す通り、軽はずみで得も言われぬ気持ち悪さを感じさせる人かもしれない。もちろん僕が恐れているのは「後者としての H氏と似ていること」だ。

もしこの仮説が的を射抜いていたとしたなら、もう解決法はない。開き直るわけではなく、僕はこういった性根を持って生まれ、52年間こうやって生きてきてしまっている。人々が嗅ぎ取るのは、相手の無意識の部分であることが多い。文章などの表面的、この場合対処療法的と喩えるほうが正しいかもしれない、そういった気遣いをしたところで、ということだ。

しょうがない、僕はしばらくの間、時間薬が忘れさせてくれるまで、臆病に生きる。そうなると当コラムの更新頻度を高めたいという点もなかなか高いハードルに思えてくるのだが、敢然と立ち向かうしかない。

そして、このまま生きていくことにする。大局的に見れば、判然としない改善点に怯えながら自分を弄ることは、残された時間の浪費と同義である。「それでは成長しないのでは」との指摘も受けそうだが、そもそも他人様の言う成長など、思考停止なのか「もっとこちらに合わせなさい」という傲慢な気持ちなのかはわからないが、そんなようなことをもっともらしく言っているだけであり、空洞化した言葉と捉えている。

最終的には……こんなにいろいろ考えさせられるほどのインパクトを与えてくれた H氏に感謝をするべきだろう。

H氏、いろいろ書きましたが、人間誰しも聖人君子ではありません。僕もあの文体は良くないと思いこのように認めましたが、貴殿の人格否定等はしていないつもりです。お互い同世代として、「歩くおじさん構文」として、なかなか難しい年代に差し掛かりましたが、無理にご自身を変えようとせず、このまま生きていっていただければと思います。

呉々もご自愛ください。

 

これを見て冷静に考える限り、やはり僕は '歩くおじさん構文' ということになるでしょう
「これを見て冷静に考える限り、やはり僕は “歩くおじさん構文” ということになるでしょう」

2021.11.02

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