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『横山健の別に危なくないコラム』

Vol.101

10月10日に Ken Yokoyama の6.5枚目のアルバム「Songs Of The Living Dead」をリリースした。18日からはツアーも始まる。

皆さんがどういう想いを抱えてアルバムを聴いてライブに足を運んで、オレ達もどういう気持ちでツアーを迎えるのか…..そうオレが思うのには理由がある。

ご存知の方もたくさんいらっしゃるとは思うが、ドラムのまっちゃんの脱退だ。

今年のトピックはまっちゃん脱退だけではない。もちろんメンバーの脱退は、バンドを人に喩えるならば、体の一部をもがれるほど苦しいことと言える。しかしそこに至るまでにはいろんな素晴らしい場面を通過し、 Ken Band としての意見交換/意識改革を経てきている。その果ての「Ken Yokoyama VS NAMBA69」の実現であり、「Songs Of The Living Dead」の誕生であり、「まっちゃん脱退」なのだ。

今年をまとめるのはまだ早いとはわかっている。しかしその経緯を一度まとめて記して、皆さんに知ってもらえたほうがいいかなと考え、月を追う形でまとめてみようと思う。

 

「1月」

2017年の Hi-Standard の「The Gift ツアー」はオレにとっては素晴らしすぎた。だがいつまでもその余韻をひきずっているわけにもいかない。

得たものを Ken Band にも持って帰りたい。得たものの中で大きかったのは「3人が平等に、全力で、一つのことに向かう」という事実、そのことから引き出される熱量、その熱量が生む化学反応。

言葉でいうと簡単だが、やること、さらにはそれを「やれてる」と実感することはかなり難しいし、なかなか起こり得ない。Hi-Standard は、当然のことながらメンバー3人それぞれ性格も、生活も違うし、なにしろ人には得手不得手がある。しかし「Hi-Standard に向かう気持ちは誰が一番強い」とは判断できない。誰がどうバンドに、楽曲に、ライブに貢献したかなんかは飽くまでも「結果論」に過ぎない。それくらい3人の情熱は高いレベルで拮抗し、結託していた。

それをステージ上でフルに発揮した。それが伝わる人もいれば、伝わらない人だっている。しかしオレにとってはそこが目的ではない。観客に愛されたか愛されなかったかは、またしても結果なのだ。愛されるに越したことはないが、オレにとってはファースト・プライオリティーではない。ではファースト・プライオリティーはなにか。「自分達が腹の底からやれた、やれてると思えてるかどうか」だ。「オレ達イケてる」と一分の誤魔化しもなく思えるかどうかだ。Hi-Standard はやれた。

だから Hi-Standard は世界一のロックンロールバンドだと自分で自信を持って言い切れるのだ。

さて2018年1月、オレは Ken Band に戻った。前年の Hi-Standard の経験を通してハッキリと認識したことを通じ、逆説的に見えたこと。それは「一つのことに平等に向かう姿勢が、Ken Band には足りない」ということだ。これには Ken Band の成り立ちや歴史が関係しているので、一概に悪いとは言えない。事実以前はオレのワントップで、バンドは成立してしまっていた。

しかし一度不満……不満ではない。懐疑的になってしまったのだ。この懐疑心は自分の胸からは拭い去れない。「平等でないことが一概に悪いこととは言えない」とは言い難い心境になっていた。

オレは Hi-Standard をやっている時間は Hi-Standard が世界一でいたい。しかし Ken Band をやる時間は Ken Band が世界一でいたい。そうでなけりゃ「ハイスタだけやってりゃいいじゃん」ということになる。ハイスタはどこにも負けない。しかし Ken Band もどこにも負けない。Hi-Stnadard を除いては。

Hi-Standard にあって Ken Band にないものがはっきり見えてしまった。

これでは Hi-Standard に勝てるわけがない。

話をする必要を感じたオレは、1月のある日の深夜ファミレスにメンバーに集まってもらって、シリアスなミーティングの場を持った。「全員に Ken Band の4分の1を担って欲しい」としっかり話をした。

Ken Yokoyama はオレがバンドの創設者で、唯一のオリジナルメンバーで、リーダーでもある。ボーカルでもあるし、8~9割はオレが曲を書く。インタビュー等はオレが単独で受けることが多い。ライブでは好き勝手に喋り、好き勝手に進行し……つまり見た目は完全にオレのワントップだ。でもオレは、何度も繰り返しにはなってしまうが、それすらも飽くまでも「結果論」であり、「できることの得手不得手」の問題にすぎないと思うのだ。精神性は横一線でなければならない。前年の経験を通して痛烈に「Ken Band はこのままではダメなんだ」と思うようになった。

Ken Yokoyama なんてバンド名でやってるし、近年はハイスタで忙しくして Ken Band が出来ない時期も増えたし、こういった諸事情でみんながオレに気を遣ってくれてるのもわかる。でも気を遣ってくれてるだけならありがたい話なのだが、「まぁ健が上手いようにやってくれるでしょ」というところをここ数年、頻繁に感じてしまうようになっていた。それは「メンバーとしての役割不足」だと思うようになった。

意識改革の強烈なきっかけが必要だった。「Ken Yokoyama というバンド名が原因でそうなるんだったら、バンド名を変えよう」とまで言った。そこは「名前は大切にしよう」ということでおさまったのだが……オレの気持ちはそこまで行ってた。

メンバーの3人も、バンドの構造に対して、オレへの気遣いに対して、素直に話してくれた。自分もガチで3人にぶち当たった甲斐あって、とても良いミーティングになったと思うし、大きな意識改革のきっかけになったと思えた。

つまり「今後は4人それぞれが Ken Yokoyama というバンドの4分の1を担っているという意識を強く持とう」という結論を導き出した。

 

「2月」

1月のシリアスなミーティングを受け、Ken Band の雰囲気は良い方向に変わった。「Ken Yokoyama VS NAMBA69」用のレコーディングをした。難航する場面もあったが、レコーディングとはそういうもんである。

Hi-Standard の「The Gift」のレコーディング、音もそうだが、そこにたどり着くまでの過程にすごく満足していた。録り方や録っている時の雰囲気。そういったことはレコーディング・エンジニアの力量によるところが大きい。いや、力量ももちろんだが、人間性やバンドとの相性とも大きく関わりがある。そこを考えて、Ken Band でも「The Gift」を録ったスタジオ、狛江の「メガハイパースタジオ」で録ってみた。とても満足いく音源が録れた。曲の揃い方にもすごく満足いった。

あとはひたすらスタジオで新曲作りに没頭し、練習して過ごした。

 


「Ken Yokoyama VS NAMBA69 用のレコーディングにて。特に意味はない。」

 

「3月」

久しぶりに Ken Band としてフルのライブがあった。ハイスタのツアーが挟まったので、前年10月に終わった「Hello Summer Sun ツアー」以来、およそ半年振りのフルのライブだった。1月に盛岡で行われた「Kiss Me Deadly」に出演したが、それは持ち時間が短いイベントだった。

赤坂ブリッツと横浜ベイホールの2本やったのだが、両方とも会心の出来だった。やはりオレの中では1月のミーティングが効いた……というか、その効力をやっと発揮する時を得たと言えばいいか。Ken Band が無敵に感じられた。

「これをやれていれば、ハイスタとの両立もできるかもしれない」つまり Ken Band である必要性を我ながら強く感じられるほどの感触だった。

横浜ではいまだに未録音の新曲「Helpless Romantic」を初披露した。

バンドとは離れたところで、この月の頭にオレは友人とスケートボード&ギターブランド「Woodstics」を始動させた。これについては2つ前のコラムで詳しく書いたので今回は書かないが、新しいことが始まる、未知の世界に足を踏み入れる感覚にゾクゾクした。

 

「4月」

ライブも入れずに、ひたすらスタジオに入って、来たるべきレコーディングに備え新曲を作った。

「Ken Yokoyama VS NAMBA69」に収録した「Come On, Let’s Do The Pogo」のビデオ撮りがひたすら楽しく、大爆笑しながら一晩過ごしたことが印象的だ。

 

「5月」

GW明けまではのんびり……のんびりではないが曲作りなどで東京にいたが、GWが明けたら途端にスケジュールが詰まっていた。

久しぶりのツアー「Very Very Strawberry ツアー」に出た。東北、九州、そして北海道でのライブ。そして九州と北海道の間には東京に戻り、1週間ちょっとのレコーディングをした。あまりスケジュールを詰めない Ken Band にしては猛烈な詰まり具合だ。

ツアーは移動も激しく、途中で福島での「東北 JAM」や鹿児島での「WALK INN FES!」なども挟まったので、なかなか気持ちの切り替えが難しかったように思う。そんな中でもオレは、1月に Ken Band のメンバーに話したことが通じてるんだと信じて、ステージの上ではやりたいこと、やるべきことをしっかりやり切るために、自分が自分に課したことを全うするために、観に来てくれた方々の方を向き続けた。あとになりゃ「あのライブは良くなかった」だの、「あの演奏は良くなかった」だのいろいろ出てくるが、やってる時はそんなこと考えずに、世界一のロックンロールを叩きつけるべくステージに立った。

ステージの上では笑ってるし、下ネタもバンバン言うのだが、それはステージの上に出るとそういう風に切り替わる人間だからであって、とてもイージーにやっている様に見えていると思う。しかし皆さんには関係のないことではあるが、案外と必死だった。

昨年のハイスタの「The Gift ツアー」で実践してみて良かったことがあったので、それを Ken Band にも持ち込んでみた。ステージに上がる直前、ツアークルーも部屋から退出してもらってメンバーだけになり、その日のライブに懸ける思い、そこでライブをやる意味をメンバーに話し、シェアするのだ。オレはライブ当日のリハーサルをしない。Ken Band でもしないし、当然ハイスタでもしなかった。リハーサルよりこういった「気持ちのシェア」の方がバンドにとっては有益だと思えた。

ハイスタの場合は、ツネちゃんの曲順チェックがまずあり、その後でオレが誰に求められてもいないのに、その日のライブの意味を語り始める。ナンちゃんは相槌を入れつつ黙って聞いている。

オレは「なんでオレ達はアルバムを作り、わざわざ何ヶ月も前から準備し、これだけの人にも集まってもらって、オレ達もこの日にはるばるその土地まで来て、ステージに出てなにをするのか。それは一体何のためか」、そんなような事を毎晩繰り返し語った。ナンちゃんもツネちゃんもそれをしっかり受け止めてくれてたように思う。なんならそれが効果的だったんだと思う。

オレはそれを Ken Band でも始めたのだが……あまりやっても意味ないなと感じ始めた。シェアできないとかそういった否定的な意味ではなく、なんとなく「そういうバンドではないのかな」と感じるようになった。ハイスタよりも日常的に一緒にいる時間が圧倒的に長いから、言わずもがなということなのだろうか……とにかくこのツアーの途中で敢えなく止めることにした。

ハイスタでやって良かったことは Ken Band に持ち込んでみるが、なんでもかんでも機能するとは限らない。

バンドという集団、繋がりはつくづく興味深いものだと思う。

レコーディングは「Songs Of The Living Dead」のためのものだった。「Ken Yokoyama VS NAMBA69」同様、狛江の「メガハイパースタジオ」で録った。鹿児島から戻ってすぐ次の日からレコーディングという強行スケジュールだった。なんでこんなことになったかというと、Jun ちゃんが「この時期しかない」と言ったからだ。

この件についてはネット媒体などで詳しく話をしているので省くが、確かにここしかなかったのだ。でもオレに任せていたら、次のタイミングは一体いつくるのかわからない。それを考えて、オレの気持ちやペースなど無視して、Jun ちゃんは「やるならここしかないだろ」と言った。「曲を作れ」と言われた。作るのはオレとミナミちゃんなので「Jun ちゃんはやれって言っといてベースだけ弾いてりゃいいんだから楽だよなぁ」と憎まれ口を叩きながらも、オレは内心とても嬉しかった。また1月の話だが、オレがメンバーに「4分の1を担ってくれ」と頼んだ。それがこういう形で出ているんだと感じて、とても嬉しかった。Jun ちゃんはオレのペースなど無視して、バンドのことを考えたのだ。

 


「この月、白石和彌監督の『孤狼の血』を観に行った。素晴らしかったなぁ。写真は『社会不適合者と映画デートなう』にでも使えや」

 

「6月」

DRADNATS を連れての「Very Very Strawberry ツアー 北海道シリーズ」、楽しかった。Ken Band の北海道でのライブを長年に亘り手がけてくれているプロモーターの方が「今までで一番すごいツアーだった」と言ってくれた。それくらい Ken Band は気合いが乗っていた。

他方、ツアートラブルなどについて考えさせられることも多く、自問自答もあった。「オレは短気すぎるのか?」「オレは言葉がキツいのか?」「オレが悪かったのか?」……それはその通りなのだが、いまさら変えようとしても遅すぎる。起こってしまったことはしょうがない。

人間、反省は必要だが、どの場面でどういった温度の反省が必要か……それくらいは自分で決める。世の中のなんとなくの流れや、周りの顔色をうかがって、「これって普通は反省すべき場面かな?」などという思考回路で反省するくらいなら、しないほうがマシだ。つまり、答えは自分が握ってるということ。オレは自分で自分のことを、キチンと謝れる人間だと思っている。オレが反省を口にしない時は、悪いと思っていない時。誰かがオレのことを悪いと思っていても、オレは自分自身が悪かったとは思っていない時。

いよいよ「Ken Yokoyama VS NAMBA69 ツアー」だ。このツアーについてのこともあちこちで話してるが……とにかく刺激的なツアーだった。

NAMBA69 は2013年に始まったバンド。それ以前に AKIHIRO NAMBA としての助走もあるが、しっかりとしたバンド形態を打ち出したのは2013年。

バンド形態を打ち出してからも NAMBA69 はしばらく迷いを抱えながらやっていたように見えた。しかしそんな迷いを払拭する転機となったのは、ギターの Ko-Hey が加入した2016年。バンドは「人が一人入るだけでこんなに変わんの!?」と思うほど、劇的変化を遂げた。実はこれ、サウンド面でも変化があったのだろうが、ポイントはそこではない。Ko-Hey のパーソナリティーが鍵を握っていた。先にいたメンバーに引け目を感じても良さそうな立場のヤツが、一番最後に入った一番年下のはずのヤツが、バンドに喝を入れ始めたのだ。オレは実際にこの目でその現場を見たわけではないが、ナンちゃんの Ko-Hey への信頼の寄せ方、しょっちゅう顔を合わせる NAMBA69 の日常の空気感、そして自分が Ko-Hey と触れ合ってあいつの性格を感じれば感じるほど、それは明白だった。

オレは変化していく NAMBA69が、正直に言って羨ましかった。

実はそういったあたりが、他のメディアでは大きく話してない、「Ken Yokoyama VS NAMBA69」のスプリットを実現させたいと思わせた大きな要因でもあった。

しかし Ken Band よりも明らかにキャリアは短い。だからこのツアーは攻めてくる NAMBA69 を余裕で受け止める必要があった。実際にいくら Ko-Hey がバンドに新しい風を吹かしているからといって、そう簡単に海千山千の Ken Band には勝てねぇよ、と思っていた。

ツアーが始まると、やはり負けた気はしない。ただし、勝った気もしなかった。ナンちゃんが書いた「Promises」が異様な説得力を持って、会場に鳴っていた。この歌詞は恐らくオレとナンちゃんのストーリーなのだ。歌詞なのだから聴く人によってどう置き換えもできるが、オレにとってはオレとナンちゃんのストーリーだ。それをナンちゃん独特の朴訥とした、バカ正直な目線で、見事に歌詞として昇華させた。こういうところがナンちゃんの凄みなのだ。

 

「7月」

月をまたいで NAMBA69とのツアーは続いた。両バンドともピリピリするわけでもなく、かといってベタベタするわけでもなく、絶妙の間を保った。ナンちゃんとオレは顔を合わせれば冗談を言い合い、イチャイチャした。それとせいぜい NAMBA69 のライブが終わると、なぜかオレがドラムのサンブに毎晩のようにアドバイスをしたくらいか。

上から目線に捉えられたら本意ではないが、NAMBA69 はライブ1本ごとに凄くなっていった。ツアーも後半になり西日本に移った頃には、オレはもう NAMBA69 の後にライブをするのがイヤになっていた。NAMBA69 で盛り上がりすぎたお客さんが、Ken Band が演る頃には疲れ果てているのだ。めっちゃやりづらかった。しかし、繰り返しになるが、負けた気なんかはちっともしなかった。ただし、勝った気もしなかった。

音源もそうだったが、ライブもがっぷり四つだった。

ずいぶんグチっぽい温度で上記したが、本当はオレは全てのことが嬉しかった。凄くなっていく NAMBA69 をこの目で毎晩観れたこと。ナンちゃんが活き活きとハイスタ以外のバンドに取り組んでいる場面を毎晩この目で観れたこと。もちろんナンちゃんとこうしてハイスタ以外の新しい関係を作り、それをたくさんの人に観てもらえたこと。観てくれた方は全員がその証人だ。

そういったこと全てが嬉しかった。

こういうことは2度は起きない。もう一回 NAMBA69 と音源を一緒に作って、ツアーに出ることはもちろんできる。しかしこのファーストコンタクトのインパクトは決して超えられないものだ。

今後も2バンドで一緒にツアーに出ることもあるだろう。しかしその時にはきっと違った雰囲気になっているはずだ。それもそれで楽しみではあるが……。

刺激的で、得るものが多いツアーだった。

この企画に乗ってくれた NAMBA69 の勇気、心意気、そして労力に心から感謝したい。

 


「スプリット音源制作、そしてツアーを終えて最終日の名古屋終演後、Ken Band と NAMBA69 のバンドフォト。Ko-Hey がやたらと背がデカいから『お前オレのことおんぶしろ』って撮った記憶が……。Photo by H_and_A」

 

「8月」

この月は、今年のオレ個人的には一番のモチベーションと位置づけていた「ザ・クロマニヨンズ VS The Birthday VS Ken Yokoyama」のツアーがあった。

インタビューでは8月上旬と話してしまったが、実際には7月30日の夕方だった。まっちゃんから電話があった。出ると「バンドを辞めさせて下さい」という。オレは「……なんで?」と訊いた。まっちゃんは「結局 Ken Band を自分のバンドとは思えないです」とのことだった。

まっちゃんは今までもたびたび「辞めたい騒動」を起こしてきた。そのたびに説得したり、怒ってシメたりしてきた。ただそういう時は、直前になにかすごい言い合いがあってオレが傷つけることを言ったとか、新曲作りでドラムアレンジができなかったりテンパったりとか、「辞めたいって言い出してもおかしくない」ような特別な事象があった。

まっちゃんは現メンバーでは一番新しいメンバーだ。それでももう8年弱やっているのだが。バンドに新しいメンバーを迎える時は、もちろん希望しか見ようとしない。しかし数年やってみると「合う、合わない」が出てくる。それは加入直後では全く見極めの出来ないことだ。これは誰でも、どの世界でもそうだと思う。それを承知で、オレは一度仲間になった者とは、なるべく諦めずに長く一緒にやりたかった。

まっちゃんの過去の「辞めたい騒動」……そういったことに直面するたびに、正直言って男として情けなく見えたし、いちいち相手にするのがめんどくさいと、よく思ったものだ。しかし「空気が抜けたタイヤに空気をいれよう」としてきた。最終的には「お前には自分から辞める権利はない」とまでオレに言わせた。

しかし今回の温度はまるで違った。今までなら「うるせぇ」とか「じゃあちゃんと話そう」となっていたところが、もうそんなことをしている余地がないほど、まっちゃんは腹をくくって話してきたのを感じた。なのでオレも「わかった」と一言だけ言った。

結局、話は今年の1月に戻るのだが、オレがメンバーに深夜のファミレスに集まってもらって「全員が Ken Yokoyama の4分の1を担って欲しい」と頼んだミーティング、それに対するまっちゃんからの返答が「Ken Band を自分のバンドとは思えない」ということなのだとオレは受け止めている。

しょうがないことなのだ。人と人なのだからこういうことだってある。「こういう危険性があるってわかってたんだったらもっと早く離れりゃ良かったじゃないか」って言う方もいるだろうが、ここまではお互い頑張って、なんとかなるかもしれないと信じてやってきたのだ。それが今年になって、オレが Ken Band のギアを入れ替えたいという話をしたら、まっちゃんはもっと混乱してどうしていいのかわからなくなり、もう自分ではついていけないと感じたのだろう。

NAMBA69とのスプリットの曲作りとレコーディングがあり、ツアーに出ながら今度は「Songs Of The Living Dead」の曲作りとレコーディングがあり、またツアーに出て、しかもそれが NAMBA69 とのツアーというとても意味やストーリーのあるもので、その中に身を置くまっちゃんは人知れずギリギリのところにいたのだろう。オレは1月に話した手前、完全にその気でやっていたので、まっちゃんの心の機微はキャッチできていなかった。キャッチしようとしていたかしていなかったかというより、まっちゃんはやる気になっているって信じ込んでいたのかもしれない。

電話をうけた日の夜、Ken Band は練習があったのだが、まっちゃんには帰ってもらい、オレとミナミちゃんと Jun ちゃんでソッコーで対策協議に入った。とにかく Ken Band の動きを止めたくないので、新しいドラマーを見つけなければいけない。具体的に名前を挙げて「あの人はいまはどこで叩いてんの?」「え、あのバンド辞めちゃってフリーなの?」などと、一緒にスタジオに入って試してみたいドラマーをリストアップした。

そして8月中には次のドラマーは決まった。

まっちゃんに対しては当然怒りにも似た気持ちはあった。「だらしねぇ」「やめちまえ、やめちまえ」自分達で物づくりをしながら、生みの苦しみの汗をかきながら、この世の中を必死で生き抜いていこうとしている男としては、正直そういう気持ちはあった。

ただ、この場面で考えなければいけないこと、皆さんに伝えなければいけないことは、まっちゃんも苦しんでたのだ。

苦しみがわかる時もあったが、いちいち甘い言葉をかけて慰めるわけにはいかなかった。そこは彼自身が突破して欲しいところ、突破すべきところなのだが、それは達成できなかった。

しかし喧嘩別れではないし、正直に自分の気持ちをオレに話してくれたことにはとても感謝しているし、勇気の要ったことだと思う。

これが上記の楽しみにしていた3バンドでのツアーにどう影響するか……心配ではあった。自分達のライブの出来とかよりも、そもそもバンドとして体を成すのか、とても不確かな気持ちでツアーに臨んだ。

しかし辞める旨を伝えたまっちゃんが思いの外、憑き物が落ちたかのようにスッキリしていて、バンドとしてしっかり機能したと思う。

3本ライブして、いい日もあればイマイチの日もあった。いい日の後はまっちゃんと「あそこのあの間、良かったなぁ」「あの曲はあのテンポ感でいければいいんだよな」などと楽しい気持ちを分かち合い、まっちゃんがよくなかった日は、今まで通りしっかり怒り混じりのダメ出しをした。

普段の Ken Band のライブと変わらぬ光景だった。

しかしザ・クロマニヨンズと The Birthday に対しては、こんな状態でツアーに突入したくなかったというのが本音だ。完全体ではないのは失礼なことだ。2バンドともキャリアが長いし「まぁそんなの関係ないよ」「バンドってそういうもんだよ」って言ってくれそうだが、オレ個人の気持ちとして悔しかった。

そんな中 Ken Band としてはこの不安定な時期でも持てるものを出し切り、健闘したと思う。不安定ながらも「絶対に勝つ」逆にこんな状態だからこそ勝ってみせるくらい思ってた……なにを以ってして勝ち負けかなど無粋だが、オレは矜持としてそれを持っていた。

これは NAMBA69 とのツアーでも感じたことだが、結局勝ちも負けもなかった。ここは NAMBA69 との対バンと違うところで、あまりにも違うタイプの3バンドがガチでぶつかり合うと、勝敗などつかないのだ。

結果、素晴らしい3日間だったのだ。やれて良かったが、できればうちが新ドラマーを迎え、もっといい状態になった時にもう一度やりたい。

 

「9月」

この月はオレがハイスタの活動、新木場でのライブと AIR JAM があったので、Ken Band は前半はほぼ休みだった。練習すらしなかった。それはそれで良い時間だったのだろう。上記したが、Ken Band の次のドラムは決定している。その人と「今後どうやってレパートリーを覚えていって、どう作業を進めるか」とか、オレの現状の Ken Band の考えや、将来的なビジョンなどを話したりしてた。まっちゃんにとっても、オレと連絡を取らなかったり、顔を合わせなかったりする時間もまた大切なものであっただろう。

さて、ハイスタはやはりすごかった。

まず新木場、台風の影響で500人もの方が当日会場にたどり着くことが出来なかった。これについては必ず具体的な埋め合わせをする。もうその方策はツイッターで発表されているので、心当たりのある方は調べてみていただきたい。

ライブは便宜上「AIR JAM のためのウォームアップライブ」と位置づけていたが、そんなものを到底超えたライブをしてのけた実感がある。ただ心残りなのが、オレはこの日、というかその数日前から謎の頭痛に悩まされていた。いつも効く薬を飲んでも全く効き目がない。今まで体験したことない場所に痛みがあって、ずっと取れない。しかしおかしなもので、頭痛というものは声を出すと頭に響いて苦しいものだが、なぜか声を出しても響かないのだ。その代わり頭を振ったり、興奮して派手な動きをすると猛烈に痛い。つまり演奏やコーラスに支障はなかったのだが、動き回ることができなかった。楽しかったが、そこが悔しかった。繰り返すが、ライブ自体は素晴らしかった。

AIR JAM 2018。もうなぜこんな平たい表現しかできないのか、薄っぺらい言葉でしか伝えられないのか、それがもどかしいが「最高だった」という言葉しか出てこない。過去に何度も AIR JAM をやっているが一番楽しかったし、なんなら初めて「AIR JAM って楽しい!!」って、頑固で天の邪鬼で懐疑的なオレが思ったほどだ。

AIR JAM の数日前に3人でスタジオに集まって練習した。ここ数年、ライブのセットリストはオレのアイデアを中心に決めているが、この日はホワイトボードを前に3人でセットリストを一から考えた。あーでもない、こーでもない、最初の曲はこれなんじゃないか、いや違うかな、この曲の後にこの曲を続けてやるとシブいんじゃないか……など。3人とも真剣な考えがあって、しかしお互い聞く耳を持ち、興奮しながら話し合った。まるで組んだばかりのバンドが初ライブを迎えるようなピュアな時間だった。この時点で無敵なライブができることは8割決まっていたのではないだろうかと思うほどだ。別に「なんでもかんでも全員でやればいい」とは思っていない。「ピュアさ」「純度」の問題なのだ。セットリストは、今後もオレが中心になって決めていけばいいと考えている。しかし AIR JAM 前のこの事は、やはり「一つのことに、平等に、同じ熱量で向かう」ハイスタの最も力強い武器を象徴的に表したエピソードだと感じる。

当日、オレは出番直前にステージ裏に集まった瞬間から、全曲終えてステージを降りるその瞬間まで、ずっと興奮し、幸せだった。18年振りにマリンスタジアムに戻る感傷など、良い意味で微塵もない。今のハイスタを叩きつけることが出来た。ツネちゃんもナンちゃんも自信に満ち溢れていたし、オレは謎の頭痛も取れていて自信満々だった。ここ一番で最高の状態を見せられたことが誇らしかったし、それを集まってくれた皆さんに目撃してもらえて嬉しかった。

間違いなく、この日もハイスタは世界一のロックンロールバンドだった。

 


「ハイスタはまだまだ跳ぶずらよ Photo by Takashi Konuma」

 

ただし、一緒に作り上げてくれた友達のバンド達がいなければ、この多幸感も得られなかった。

BRAHMAN がトップを引き受けてくれたことは本当にデカいことだと思う。ステージ上でも話したが、フェスのタイムテーブルはキャリアの短いバンド、まださほど人気のないバンドからスタートして、少しずつ格上のバンド、キャリアのあるバンド、人気のあるバンドへと進んでいく傾向にある。それが観客にとっても、さらにはバンドにとっても「バンドの格を測る尺度になっているのではないか?」とも思うのだ。「どのフェスでトリをやった」と嬉しく思うのもいい。「よし来年はもっといい順番にしてもらえるようにがんばるぞ!」それも立派なモチベーションだ。良いことのように思えるが……これだけフェスが多いと、もはやその価値は下がっているとオレ個人的には感じる。とは言え、一般的にはそこで測るものだという認識は言語化されずとも大きいとは理解している。めちゃくちゃなことをしても意味がない、意味がなければ伝わるものももちろんない。

しかし BRAHMAN は1998年から唯一連続で参加しているバンドで、大いに意味を持つバンドだ。そこで AIR JAM としての態度を表すべく、BRAHMAN にトップをお願いしたのだ。結果、これはセンセーショナルとして捉えられ、お陰で AIR JAM 2018 は締まったものになったと感じている。

バンド主催のフェスは、やはり主催バンドがトリをとるのが普通だろう。しかし今後の AIR JAM はもしかしたらハイスタがトリではない可能性だってある。この発言は完全にオレの勝手な考えだが、そういうことがあってもおもしろいんじゃないか?と思ったりもしている(そもそも今後 AIR JAM はあるのか?次やるならばどのくらい先か?というところから3人で議論する必要があるが)。

BRAHMAN がこのフェスを特別にしてくれたことと同じくらい、またしてもオレの勝手な気持ちだが、やはり The Birthday が参加してくれたことは大きかった。

ここ数年 Ken Band とThe Birthday はよく対バンをし、チバくんを始めメンバーのみんなと距離を縮めてきた。なので The Birthday がいま AIR JAM に参加することを特段不思議に思う方は少ないとは思う。

しかしオレにとってチバくんが AIR JAM に参加してくれたことは、誰にも発見されず長年に亘り連綿と流れ続けてきた地下水脈を皆さんに見てもらったような感覚なのだ。この地下水脈とは、言わずもがなではあるが、ハイスタとミッシェル・ガン・エレファントの関係、時の経過のことだ。

もちろんチバくんとキューちゃんは The Birthday として参加してくれたわけで、彼らにとってはどうでも良いことかもしれない。それどころかそんなオレの気持ちはカッコ悪いことかもしれない。でもオレはそこのロマンを自分の感情から除外することはどうしてもできない。

The Birthday のライブが終わって、なんとなく空を見つめながらタバコを吸っているチバくんをバックヤードで発見した。空を見てたのではないのだろう、なにも見つめてはいなかったのだろう。オレはチバくんに近づき、The Birthday が AIR JAM に参加してくれたことがどれだけ自分にとって、そして AIR JAM に来てくれた方にとって大きな意味を持つか、興奮気味に話した。チバくんは少しだけ柔らかい表情になって「そうかなぁ、そうだったらいいけど……」と一言だけ言って、オレの方も見ずに、黙った。その時空を見つめていたのは、もしかしたらアベくんに話しかけていたのかなぁと感じた。きっとそんなことはしていない。でもそう思わせる何かが、オレの気持ちの中と、チバくんの表情にはあった。

オレはチバくんが大好きだ。

AIR JAM が終わり、Ken Band で盛岡の「いしがきミュージックフェスティバル」に9年連続で参加した。「参加させてもらった」と表現すべきだろう。なぜなら実は、今年はやらないという申し合わせになっていた。しかしいろいろ考えた末、「やっぱり出させてもらいたい」とお願いした。出演バンドも全て決まったところで掟破り的に、こちらからオファーして参加させてもらった。出演バンドが全て決まっているのだから、当然タイムテーブルも出来上がっている。そこをなんとかお願いして、20分だけもらうことができた。これについては主催者、関係者の皆さん、参加バンドの皆さんのご理解とご協力に感謝の意を示したい。

このフェスの空気感は、毎度毎度同じことを言うが、独特で素晴らしい。今年もやっぱり素晴らしかった。先述したように持ち時間は20分、普段はムダ話やくだらない話、下ネタを話しながらライブをするのだが、そんなことしている暇はなく、フルスロットルでやったら5曲演奏できた(実質18分でライブを終えたらしい)。その5曲は、盛岡のこのフェスで鳴らすべき曲達だったと自負している。

もう少し踏み込んでお話すると、震災直後のこのフェスでオレは「郷土愛」に強烈に触れた。「愛国心」ともいうのだろうが、その言葉には違う意味も内包されてしまうので、敢えて「郷土愛」と言う。それは「震災や自然災害を受けた地域を想う」ことから「生まれた街の商店街を活気づけたい」というようなことまで、オレにとっては優しさを以ってとても広義にわたるものだ。もはや2011年の震災以降の自分の発信/行動原理になっているといえる。

簡単に言うと「Support Your Local」という曲を今年作ったので、それを今年ここで鳴らさないでどうする?ということなのだ。その曲を演奏しに行ったのだ。

どこまでどう伝わったかなんてただの結果論なので求めない。これをやれて、やらせてもらえてオレは嬉しかった。

 

「10月」

10月10日 Ken Yokoyama の6.5枚目のアルバム「Songs Of The Living Dead」をリリースした。あちこちに散らばった曲……オムニバス参加曲だったり、ネットでのみ公開した曲だったり、未発表の音源をひとまとめにした。しかし Ken Band のコアなファンなら「全曲持ってます」となってしまう。それが一番イヤだったので、新録5曲を足して、全20曲のアルバムにした。

このアルバムは便宜上「セルフコンピレーション」と呼ばれているが、オレにとっては7枚目のアルバム。しかし「7枚目のオリジナルアルバム」ではないので、6.5 枚目のアルバムと呼ぶようにしている。

とは言え、今までに録ってきたアルバム未収録曲を全部入れたわけではない。「今後ライブで演っていきたいかどうか」を基準に選曲した。すでにライブでの定番になっている曲から、10数年間お蔵入りになっていたが今後ライブで演りたい曲、そういった曲を収録の基準にした。思いっきり「ライブ目線」だ。なぜなら Ken Band は「ライブバンドだから」だ。

ライブで「アルバムは全部聴いたけど、この曲何に入ってるの?」「やたら盛り上がってるけど、これなに?」といった現象を一気に解消してしまうつもりなので、是非ご一聴の上でライブに来ていただけたらこんなに嬉しいことはない。

 


「Songs Of The Living Dead」

 

さて、ここでドラムのまっちゃんの脱退の話だ。アルバムの話もまっちゃん脱退の話もすでにインタビューで詳細を語っているので、多くはそちらに譲るが、ここでしか話さないこと、話せないことを補足的に記したい。

強く言っておきたいことは、まっちゃんは悪くない。

オレはまっちゃんは「難しいヤツだ」と思っているが、それと同じようにオレもまっちゃんにとって難しいヤツだったのだ。

人としてはとても好きだ。しかしバンドのメンバーとしては「合わなかった」、この一言に尽きると感じている。バカ話をすりゃ一緒に笑う。いろんな希望やビジョンも共有してきたはずだ。しかし一緒に物創りをする者として、なにもないところを切り拓いて生きていこうとする仲間として、同じ船に乗る仲間として「合わなかった」それだけなのだ。

8年弱の間、小さなことから大きなことまで、とにかく衝突や意見が合わないことが多かった。8年弱もの間、何度もだ。立場がオレの方が上だという認識からか、オレが一方的に捲し立てることも多かった。オレは対等でいたかったが、同じように、きっとまっちゃんも対等でいたかっただろうし、そうあろうとしたけど、それは実現しなかった。どっちが悪いのでもない。

いま思い返すと、逆によくここまで持ちこたえてくれたもんだとも思うほどだ。

脱退が決まって取材を4人で受けることにした。アルバム「Songs Of The Living Dead」のリリースのタイミングと、まっちゃんの脱退のタイミングは切り離して考えられなかったから、4人で取材を受けた。「アルバムを作ったからまっちゃんが脱退する」のではないが、どうしてもタイミング的に切り離せなかった。

脱退に至った経緯を、オレが話すよりまっちゃん本人に語ってもらった方が良いと考えた。

取材を受けていた9月中旬から下旬頃、オレはまだ苛立ちを隠せずにいた。まっちゃんに苛立っていたのではなく、「辞めていくまっちゃんに」だ。これは大きな違いなので、できればニュアンスを汲み取ってもらいたい。まっちゃんがイヤなのではなく、まっちゃんが辞めていくという事実がイヤだったのだ。

もっと言うと、一緒に「Songs Of The Living Dead ツアー」に出るのもイヤだと思った。それも「まっちゃんと出るのがイヤ」なのではなく「辞めていくメンバーと」ツアーを周るのがイヤなのだ。だってオレ達は「仲良しこよし」でやっているわけじゃない。大の男達が「真剣に」やっているのだ。なので実際に取材でもそう素直に口にしたのだが、きっと冷たく響いたであろう。

いまアルバムもリリースされて、10月18日から始まるツアーを直前に控えて、取材を受けていた頃に比べて気持ちはだいぶ落ち着き、整理されてきた。「楽しんでライブをやれたらいいな」という気分になってきた。まっちゃんとも、良いライブができたら「あれ良かったなぁ!」と興奮し、良くない出来の日があったら、最後のツアーだろうと矯正するような話し合いを持つ、そういう今まで通りのことをやりたいと考えるようになった。

なにしろツアーにさえ出てしまえば、ステージにさえ立ってしまえば、楽しいもんなのだ。

実際のライブ中、どういう気持ちになるかはまだ予想がつかないとはいえ、オレはオレで楽しむつもりでやる。

恐らくこのツアーが終わり Ken Band はもうあと数本のライブをするだろう。それが終わったらまっちゃんは Ken Band を去る。「来年頭にでも、1本くらいでも、脱退ライブみたいなのやる?」と訊くと「そういうの、絶対にイヤです」と返ってきた。ほら、そういうのがイヤな人なのだ。

ライブ中に「まっちゃん、いままでありがとう」と声を掛けるようなヌルいこともしたくない。お涙頂戴的なことは、オレもそうだが、まっちゃんが一番嫌うことだ。その代わりに、誰も見てないところでそっとまっちゃんを労ってやりたい。

何度も繰り返しになるが、Ken Band の新しいドラムはすでに決まっている。まだ誰だかは正式発表できないが、良きところで発表するので楽しみにしていていただきたい。

Ken Band の 2019 年は、最初の数カ月はスタジオにこもって今ある曲を新しい4人で煮詰めて形にする作業をする。そして3月の終わりくらいには新体制でツアーを再開できたらいいなぁ、そして新曲もどんどん作っていって早い段階で次のフルアルバムにこぎつけたいなぁという青写真を描いている。

そして気持ちがスッキリしたまっちゃんとは、会う回数はグッと減ることになるとは思うが、普通に友達になれたらいい。

もし Ken Band のライブに遊びに来てくれたら、ピンボーカルで「スキヤキ(上を向いて歩こう)」を歌ってもらおう。

もう次のコラムを書く頃には、きっとまっちゃんはいない。

しかし新体制の Ken Band、絶対に世界一のロックンロールバンドで居続けるから注目していて欲しい。

そして感謝の気持ちを以って、まっちゃんの新しい人生に幸多からんことを、と記して閉じる。

 


「じゃあな、まっちゃん Photo by 石井麻木」

 

2018.10.16

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