このサイトはJavaScriptがオンになっていないと正常に表示されません

フリーライター石井恵梨子の
酒と泪と育児とロック

Vol.15

また気づけばずいぶんなご無沙汰となっていました。すいません。

ここ数日楽しんでいるのは、Vol.9の冒頭でも書いたムック本『ヘドバン』。いつも暑苦しくて、過剰かつ絶妙なユーモアに溢れていて、私もいち読者として大好き。さらに最新号では横山健がメタルをおおいに語るという特集記事が。これもめちゃくちゃ面白いです。でね、凄いと思ったのがこの一言。
「メタルがなんであそこまで欧米でウケるかというと、反宗教的、反キリスト教的なものだからです。日本人にはその感覚がない(以下略)」

はーん!と膝を打つ回答でした。その感覚が手に取るようにわかる。じつは私、キリスト教という巨大な勢力と闘ってきた歴史があるんです。

……大袈裟に言うとね。ふつうに言い換えると、ウチの両親がキリスト教徒ってことです。どういう経緯か知らないけども、父方の祖父母は昔からキリスト信者であり、父は生まれた時から当たり前のように教会に通っていました。また、母親はミッション系の高校に入ったあと、何か思うところがあったのか教会に通うようになり、そこで両親は出会ったと。宗教はふたりを繋いでくれた縁結びであり、出会いの場となった教会はふたりのメモリアルホールみたいな感じ? 素敵な話です。

で・も・ね! これ宗教ありきの話です。信じる者同士の話です。二人が救われたり恋したりセックスしたりするのはいいんだけど、そこから産まれた子供はどうなんのよ、と。それが出てきてしまった私の話ですよ。

父と同じく、私も産まれた頃からずっと教会に通っていました。物心つく頃には「にちようび=きょうかい」が当たり前。普段の生活では食前のお祈りと寝る前のお祈りが義務だったし、もうなんか「アーメン」という言葉がティッシュの紙クズくらいの感覚で転がっている家庭でした。何か悪さをすると、いや悪いことじゃなくても「全部神様が見てるんだからね!」と言われたし。両親がそういう思想であるかぎり、幼い子供にとって「神様」は絶対であり、疑問を呈しちゃいけないものになっちゃうんですね。

そんな生活も成長と共に変化します。友達との約束や部活などで教会に行く日はだんだん減っていくのですが、元来あったのかなかったのかわからない信仰心が、はっきり消えた時のことはよく覚えています。中学の歴史の授業。紀元前から続く長い年表には「◯◯が王朝建設」とか「◯◯暗殺される」などの出来事が書かれてあり、その中にサラッと「イエス・キリスト生まれる」が書いてある。わお、ただの出来事! 全部が生まれて何かして死んでいった人名の羅列! 年表のドライさに感動しつつ、そっか、イエスもシャカもマホメットもただ生まれて死んでいった人間なんじゃん! と目からウロコ。

「あらゆる宗教は人間が作った」という事実が、我が家では完全に伏せられていましたからね(なぜならイエスは、罪深き我々のために神が贈りたもうた云々……みたいな神話だけがあった!)、けっこうな衝撃でした。

ただし、もう教会に行きたくない、と親に説明するのが一苦労でした。自分の気持ちをうまく言語化できない年頃ですし。両親にとっては、娘が面倒になってきたなぁと頭を痛める時期だったのかな。やっかいなことに娘は同じ頃ロックまで聴き始めたものですから。

とにかく反対されました。父は昔からクラシックしか認めない人間でしたから、それが理由だと思っていた。でも、理由はたぶん違った。だって彼らはキリスト教徒だから。キリスト教から見て一番おぞましいのが、サタンとかヘルなんて言葉を好んで使うロック(特にメタル)の人たちなんですね。

だから、マジで映画『デトロイト・ロック・シティ』みたいな話になりましたよ。ドーンと家族会議。ほんとにやったんですよ、1990年代、とっくに昭和から平成になった時代に!
「エリコ、まず、ロックというのは不良の音楽だ。悪魔の音楽だ」

父が真面目くさっていいます。真面目くさって、というか、マジだったんだと思います。猛爆!……と言えるこれは20年後の私の視点です。
「ロックの人は麻薬で死ぬじゃないか。クラシックでそんな人はいない」

真面目くさって続けます。私はむくれて黙るほかない。20年後の今なら「クラシックと呼ばれるのはだいたい19世紀までで、当時まだその類のクスリは出回ってないからですよ」と指摘するのですが。

そんで、父にイタいところも付かれます。
「実際におまえは、タバコを吸っただろう!」

中3の終わりに初めて吸いました。すぐバレました。はい。ごめんなさい。
「みなさい、そのタバコが麻薬への始まりだ! おまえ、死ぬぞ」(母、賛同の拍手)

えぇーって思うでしょ? でも事実なんですよ、これ、マジで。

改めて書いてみると、我が身に起きた出来事ながら漫画みたい。親が厳しくて大変だったという苦労自慢のレベル超えてますもんね。ちょっと異様すぎるし芝居がかってるし、呆れて笑うしかない感じ。でも『ヘドバン』の横山健発言によると、これが「日本人には想像がつかない欧米の宗教観」なんだと。ほうほう、私ったら感覚的に欧米人かもしんない、と初めて思いましたよ。でもこの反発を突き詰めていくとブラックメタルになるらしい。あは。

さて、私はロックに憧れてライブハウスに通いだし、そこで出会ったパンクやハードコアに道徳を学んだので、信じるものがある、という意味では、これが自分の宗教となるのでしょう。10代でやたら喧嘩した親とは、今はそれなりに平穏な関係ですし、本当にそりが合わない部分は「宗派が違うんだから仕方ない」と片付けています。親といえども深い理解はできない。だって宗教が違うんだもの。

実の親に対してそんな言い方はないだろう、とよく言われますが、これは絶対的な宗教観を持たない、親子の縁に宗教が入り込んでこない(あるいは宗教的断絶がない)、一般的日本人の感覚なんじゃないかと思います。

たとえば、私がダンナと結婚を決めた時、彼らは「他は何でもいいから、こちらの(つまり実家で親が毎週通っている、二人の出会いの場である)教会で式を挙げること」だけを条件としてきた。他は何でもいいっつうのも雑ですが、その教会が大事だというストーリー、私たちに、特にダンナにはまーったく関係ない。その事実が彼らにはわからないのです。何をさておいても宗教が絶対というのは、こういうことなんですね。

そして式の当日。牧師がおごそかな口調で長めの話をする時間があって、「いいお話だった」としみじみする母がいる。しかしキリスト教って何ですかみたいなダンナは「なんかさぁ、初めて会った人に、オレ何もしてねぇのに、なんで悪いことしたみたいな言われ方されなきゃいけねぇの?」と。

爆笑しました。「人は罪深きものである」という前提から始まるキリスト教の考え方は、母にとって「よい話」で、ダンナにとっては「オレ何もしてねーよ」になる。この解釈の違い! 埋めようったって埋まりません。宗派が違うんだよ、としか言いようがないですよね。

2015.07.03

  • 感想文
  • バックナンバー