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『横山健の別に危なくないコラム』

Vol.88

「長髪」

髪の毛を切った。1年半振りくらいに短くした。Kenco Yokoyama の写真を撮った頃からズーッと切らなかったから、結構長くなってた。

ホントは今回いきなり坊主にしたかったんだけど、長髪の状態から坊主なんて劇的なことすると、しばらくの間分け目が取れなくて…つまり「分け目がバキッとついた坊主頭」になる。それはいくらなんでもかなり猛爆なことになってしまうので、段階的に行くことにした。

「髪の毛切った」とか報告するのは可愛い女性芸能人やモデルさん達。オレは45歳のオッサンで、こんな報告をするのは我ながら実に気持ち悪いことだとは理解しているつもりだ(猛爆)

でも聞いて欲しいのだ。伸ばしてた時期の苦労を聞いて欲しいのだ。苦労とは言っても、決して「枝毛がどう」とか「くせ毛がどう」とか、コスメチックな髪の毛の話ではない。

なにが一番苦労したかというと…前髪が目にかかるでしょ?というか、視界に入るでしょ?それがとても危なかったw 目が痛くて危ないとかそういうんじゃなくて、視界を妨げるので、ちょっと暗がりを歩くと足元が危ないのだwww 下手すると転んで骨折するのだww それに視界が狭い状態で道を歩くとwww 下手すりゃ車や自転車にぶつかっちゃうんじゃないかと思うのだwwww 怖いのだw 命懸けなのだwwww もう完全に「初老」の苦労なのだ(猛爆)

ここ数年でバッチリ「老眼」が始まっちゃって、同時に普通に近眼も進んだようで、つまり…近くても遠くても見えない(猛爆)そんな目の状態で、髪の毛がさらに視界を妨げたらどうだろう。イライラを通り越して、もう生きた心地がしないのだwww

美容的観点(猛照)から言っても、抜け毛や切れ毛も激しかった…。ホント、ビックリするくらい抜けるのだ。そりゃ初老のオッサンなんだから多少禿げてもきてるのだろう。オレは「ハゲ・デブ上等」でいつでも来てもいいよなので、抜け毛など怖くないはずなのだ。しかしそんなオレでもさすがに引くくらい抜ける。普通の長さでもある程度は抜けるだろうが、長いのでやたらと目につく。ドライヤーかけた後の洗面所なんか、オレの毛だらけなのだ。「怨念」の三文字が頭をよぎる。

しかしそんなにリスクを背負ってまでなかなか切らなかったのには理由があるのだ。まず一つ目に…そろそろ切ろうかなと思った頃に秋が来て寒くなり始めたから、ビビって切れなかったのだ。風邪ひくんじゃないかとビビったわけだ。いや、ビビったことなんかないんだけど。まぁ体力だって落ちてるし、去年は長男坊と揃ってインフルエンザにかかったことだし…今年は絶対に風邪はひけない。実は切らない理由すらも自分の「老い」と密接な関係にあるのだ。

二つ目に、「もうこれがオレの人生での『ラスト・ロン毛』だ!」と途中で決めたので、耐えられるギリまで耐えようと思ったのだ。耐えて伸ばしていたら、自分ではどうみてもみうらじゅんさんやロッチの人みたいに思えて仕方がなくり、何度も切りたい衝動に駆られた。それでもなんとか耐えた。耐えた末に春を迎え多少暖かくなり、めでたく切れたわけだw

なぜ「ラストロン毛」なのか?…繰り返しにはなるが視界が効かなくて危ないからだ(猛爆)もうあんな危険と背中合わせの日々は過ごしたくない。それに、夕方の路面に落ちる自分の影が綾小路きみまろさんに見えるのも、地味にショックだった。もちろん抜け毛も憎たらしかった。

とにかく、もうなにもかもイヤだった(猛爆)良いことなど一つもない。

だからもう二度とロン毛にすることはないだろう。

…しかし、短く切ったら切ったで、まるでおばちゃんみたいで、周りに笑ってもらうために切ったとしか思えない。その反動で、また性懲りもなく伸ばしたりするのかもしれない。「あれ、『ラストロン毛』だったのでは?」と聞かれたら、「あれはうっそーん」と答えようw

結論としては…「まぁ髪型で男が決まるわけじゃない…そう言い聞かせておこう(猛爆)」

 


「新しくゲットした Gretsch Silver Falcon Center Block を手に」

 

 

「なかなか切らないキモロン毛 -90年代編」

ついでに、髪の毛にまつわる思い出を1つ話そう。

高校を出てから、オレはバンドをやるためにバイトで暮らしてた。楽器にも練習代にも金がかかる。ライブに出演したけどノルマをこなせずに赤字なんてことはザラだったので、そういう時はメンバーで折半して払う。人気のないライブハウスバンドはなにかと金がかかるのだ。それらを賄うためにはハードにバイトするしかない。さらに言うと、突然のライブなどに備えて、シフトの融通の利くバイトを見つけるのが望ましい。若いバンドマンにとってこのあたりのやり繰りは、今も昔もそれほど変わらないだろう。オレもそういう道を通ってきたのだ。

 

いろんなバイトをした。引越し屋、カーペット貼りといった肉体労働系から、うどん屋や洋服屋、といった屋内物、ライブ会場の警備や工事現場のガードマンのような派遣系…そういえば、つい先日惜しくも閉店してしまった下北沢の名門ライブハウス「屋根裏」では1年半働いた(ここは時給はぶっちぎり低かったが、ライブハウスで働くと言うことはそういうもんであるw)。そこでナンちゃんと出会い、ハイスタ結成に至ったのだった。ナンちゃんとは新宿のパチンコ屋でも一緒にバイトした。とかまぁ書き切れないが、いろんな仕事を経験した。

ハイスタを結成し、ぼちぼち人気が出始めた頃、オレは長髪だった。そして某ピザハットという宅配ピザのチェーン店でバイトを始めた。時給が悪くなかったし、シフトも希望を聞いてくれる。今から20年ほど前のことなので、「宅配ピザ」というものも今ほど浸透しておらず、結構ノンビリとしていた。2年ほど働いただろうか…その間に宅配ピザは一般家庭に浸透し始め、注文も増え忙しくなっていった。そうなるとバイトの人数も増え、まとめるための新たな規律もできてくる。

オレがピザ屋で働き始めた頃は、長髪は店長に容認されていた。とはいえ「なるべく早く切ってくれ」とは言われていた。店長的には別に構わない様子だったが、親会社にうるさく言われる前に、という感じだった。

オレはその店で週6日、1日10時間働き、あっという間にチーフ的なポジションになった。朝9時からの仕込みを一人でして、11時に出てくるバイト達に指示を出し、昼の注文をさばいていく。つまり「早番の番長」だった。オレがいなかったら店は開かない程度に、結構強い番長だった。まぁ店長もオレがバンドを一生懸命やっているのを知ってたし、金も必要だと理解してくれてたので、そういう大切な役割を優先的にあたえてくれたのだろう。今でもそれには感謝している。そして店長が出勤してくる夕方までオレが店を回し、店長が出勤したら自分は配達に出る…そんな毎日だった。

ある日、突然店長に髪の毛のことで怒られた。容認してくれてたはずなのに、なんで?どうやら本社のエリア担当の人が、オレの長髪が気に入らなかったらしい。チェーン店を大きくするためには、増えてきた雇用を律するためには、ロン毛は邪魔ってか?おう?バカか?テメェはポロシャツの襟立ててるくせに、長髪は気に入らんってか?

分かってます。アルバイトとはそうしたものです。雇う側の言うことに従うものです。従わなければ簡単にクビにされて、文句も言えないんです。今なら分かります。…しかし当時のオレは分からなかった。分かりたくなかった。

オレは、たまにみっともない外車に乗って店を偵察しに来る、そのエリア担当が最高に気に入らなかった。話したこともロクにないが、イケ好かない奴だった。店長の上司なので、そりゃ店長は「お前の長髪のことで上司に怒られた!」とオレに怒る。でも店長は切れとは言わなかった。その代わり、「髪の毛切ったら時給上げてやるよ」と言った。その瞬間、オレは「この店にいる間は絶対に切らねぇ」と決めた。

次第にオレの長髪へのプレッシャーは強くなっていった。エリア担当のイケ好かないクソ「ポロシャツの襟立て」は、店長にオレをクビにしろとまで言ったらしい。店長からの風当たりもどんどんヒステリックになってくる。しかし言われれば言われるほど、「店長には悪いが、上等じゃねぇか、絶対切らねぇ」と思った。そんで本当に時給はサッパリ上がらなかった。オレの後から入ってきたバイト達が、あっさりオレの時給を越えてった。また、そういうのを見るにつけ「上等じゃねぇか、絶対(以下略)」と思った。

金のために髪の毛を切るなんて、オレは絶対イヤだった。別に長髪にこだわってたわけじゃないが、時給が上がる以外特別切る理由も見当たらない、つまり切るなら金のため。そんなの男が下がるじゃねぇの。分かってます。今では分かります。横山くん、ツッパリどころはそこじゃない。でも当時のオレは、それは本当に男の名折れだと思っていた。

そうしている間にも髪の毛はどんどん伸び、それとは関係なくハイスタのライブハウスでの人気も上がっていった。

ハイスタは海外レコーディングのチャンスを掴んだ。「Growing Up」のレコーディングのために1ヶ月サンフランシスコに行くのだ。95年の夏だった。店長に話したら「いいよ、そんなチャンスなら1ヶ月休みやるから行ってこい」と言ってくれた。良い人だった。

95年の秋から冬にかけて「Growing Up ツアー」を敢行した。「なに、ツアー?すげぇな。店のシフトとしてはキツいけど、今しかできないんだろ?行ってこい」そう言ってまたも店長は快く休みをくれた。

年が明けて96年1月、Green Day の初来日のサポートに抜擢され、2週間の休みを申請した。その頃になると、ちょっと店長もシブり出し「またかよ、忙しい時期に…でもオレは知らないけどそんな大物とツアーすんのか。チャンスなんだろ?しょうがないな、いいよ。」そう言って休みをくれた。

さらに2月、No Use For A Name との北米ツアーが組まれた。店長に話すと「またかよ、お前もうあんまりアテになんないな。どんくらい行くんだ?6週間!?もう来なくていいよ。」休みをくれたというか、クビになった。

日本に戻ると、今度は日本ツアー。バイトはクビになったが、そもそもバイトする時間がなくなった。しかし風の噂で、店長はオレが戻ることを望んだら受け入れてくれるつもりだったという。嬉しかったけど…バイトに出る可能性が残されているということは…まだ意地を張ってなきゃいけないこと、まだ髪を切るわけにはいかないことを意味した。

そんな具合で、髪は伸ばしっぱなしだった。皆さんハイスタ初期の「キモロン毛」の頃のオレを見たことがあるだろうが、それが当時の「キモロン毛」の裏事情だ(猛爆)好きで伸ばしてたわけじゃなく、金のために切るのがイヤだったのだwww はした金をちらつかされたから切らなかったのだwww 皆さんもうご存知かと思うが、オレは強情なのだ(猛爆)

96年暮れあたりになると、ツアーのギャラやある程度売れたアルバムの印税で生活できるようになり、もう自分でもバイトに行く必要はないかな?と思えた。

そうして、やっと髪の毛を切った。

話は飛ぶが、映画「横山健 -疾風勁草編」で個人的にすごく好きな発言がある。後半の方で…おそらくAir Jam の会場に向かう車内でのシーンだ。撮られてることも知らず、無防備に菓子パンかなんかをむしゃむしゃ食いながら、たぶんハイスタについての話だが「でもつまらんけど、大切な意地だったのよ」とオレが言うのだ。

 

今回のバイトと長髪の話を書いてて、なぜかその一言が思い浮かんだ。

 

 

「横山健 -岸田哲平編-、とその裏話」

映画の話も出たところでw、皆さん最近オレの写真集が出版されたのご存知ですかー?タイトルは「横山健 -岸田哲平編-」っていうんです。映画「疾風勁草編」から、書籍「随感随筆編」、今度の写真集は「岸田哲平編」、…岸田哲平っていう四文字熟語、どういう意味なんですかねぇ?

 


「横山健 -岸田哲平編-」

 

この写真集、カメラマンの岸田哲平が18年にも亘り撮り続けたオレの写真16万枚(!)の中から哲平自身がチョイスしたものを1冊にまとめたもの。だから、オレの作品じゃなくて岸田哲平の作品と言う方が正しいだろう。もちろんオレの作品でもあるけれども。

そういやぁてっちゃんがオレのことを撮り始めた頃は、初期キモロン毛が終わった頃だったなぁ(猛爆)でも内容を見ると、18年の間に何度か「なんとなくロン毛期」が訪れてたことが良く分かるw しかもつい最近の「バッチリキモロン毛」まで収められているww 機会があったら皆さん是非お手に取って、「お、この頃キモいな」と笑ってやって下さいw

でもさすがてっちゃん、距離感が近くないと取れないようなオフな写真や、時代感を切り取ったような貴重な資料的な写真も満載で、オレが言うのもなんだけど、素晴らしい作品だと思う。

写真選びについてはオレからはほとんどリクエストは出さなかった。だいぶ使う写真が絞られてきたところで、1つだけ「これは出すのやめようよ」と言った写真があったくらいだ。

Ken Yokoyama 1st アルバムのジャケットの絵を思い浮かべて欲しい。ダイスケ・ホンゴリアンによる絵なのだが、実はあの構図そのまんまの写真をてっちゃんが撮って、それをダイスケが絵にしてくれたものなのだ。だから元ネタというか、ドンズバであの絵の写真が存在するのだ。「あれはオレとてっちゃんとダイスケだけが持ってる写真でいいんじゃねぇか?」って、出すのをやめてもらった。

さらに進んで「もうこれで行きたいと思います!」って段階で、オレは1つ気になることが出始めた。オレと関わりのあった人、大事な人、いろんな人も写り込んでいる中で、オレのカミさんが写ってる写真がなかった。子どもの写真はあったけど、カミさんのは使われてなかった。でもオレは、てっちゃんが変な気を利かせてるんだとすぐに分かった。特別そこについて話したことはないけど、言葉なしでも分かった。だから自分から「てっちゃん、1個大事なピースが欠けてるんだよ。カミさんと写ってる写真ないかなぁ?あったら使って欲しいんだよな」ってお願いした。てっちゃんは「ボクもそう思ってましたけど…逆にいいんですか?」、やっぱりてっちゃんの考えてることくらい、オレには手に取るようにわかるんだぜ。

そんでカミさんとの写真も使うことになって、オレはカミさんに説明した。「これこれこういう写真集を出すことになってな、わしの写真ばっかだけど、てっちゃんの写真集なんじゃ。最初てっちゃんは気を遣ってあんたの写真は入れとらんかったんじゃ。でもわしがせっかくだから使うてくれ言うたんじゃ。そんで何枚か載ることになったんじゃけど、文句言うたらいけんよ。」…カミさんは怪訝そうな顔をした。

その晩、たまった食器を2人で洗った。1時間くらいかけて、黙々と2人で食器を洗っていった。ホントにほぼなんの会話もしなかった。なんとなく昭和感があった。終わり間近になってカミさんがこういった。「あたしの写真も載せてくれるって言われて…あたし本当に嬉しかったんよ。」オレは「…分かってる。」とだけ答えた。オレが1番昭和だった。

さあ、盛り上がってまいりました(猛爆)もう一つうちのカミさんのエピソードを紹介しよう。

うちのカミさん、本当にギターのことをよく知らない。ギタリストと暮らしていても、自分が弾く人でなけりゃ普通はわからないもんだ。

最近、箱物のギターばかり弾いてるのはコラムでもよく触れるので、皆さんもご存知のことだろう。うちのカミさんだってそれくらいは分かってる。大体オレが嬉々として「今日新しいギターをゲットするんじゃー!」って家を出ていって、今まで弾いてたギターに比べてやたらとブ厚いギターを持って帰ってくるのだから、それくらいはわかっている。

それらの、最近弾いてる箱物ギター達にはビブラート・ユニットがついている。「アーム」とかいう表現をするともっと「あぁ、あれね」と分かる人も多いのではないだろうか。アームバーを押し引きすると、音がユラユラと揺れる仕組みになっているのだ。

オレが最初に手にしたエレキギターにはアームがついていた。だから皆さん意外と思われるだろうが、自分にとってアームの存在はとても普通なことなのだ。しかしオレが長年弾いてきたレスポールや助六にはついていない。だからカミさんは知らない。ストラト・タイプのギターも所有しているが、家では滅多に弾かないし、そもそもアームは外してある。カミさんにとっては、ほぼ初めてお目にかかるものだったわけだ。

オレは久しぶりにアームのついたギターを手にして、家でもアーミングをしたりして遊んでた。

するとうちのカミさん、「それ、なに?」と訊いてくる。「これ?ビグスビーっていうアームじゃ?アーム知らんのん?」と言うと「知らん」と言う。「それどう使うん?」とまた訊いてくる。「音にビブラートかけたいときに、こうするんじゃ。ビブラートかけたみたいにビヨンビヨンってなるじゃろ?」

しばらく黙って見てたカミさん、こう訊いてきた。

カミ 「じゃあ、もう前みたいに指でビヨンビヨンせんようになるん?」
オレ 「いや、やるよ。指でかけるビブラートとアームでかけるビブラートは全然違うものじゃからなぁ。」
カミ 「…そうか、それならいいんじゃ。」
オレ 「なんで?なんでそれならいいん?w」
カミ 「…指でビヨンビヨンってやるのをやらんようになるんかと思ったんじゃ。」
オレ 「指でビブラートかけんようになったらダメなん?」
カミ 「だって…指でビヨンビヨンやるの、すごく上手じゃったが?あれせんようになるんかと思ったら寂しかったんじゃ…。あれ、すごく上手にしょったが。まだするならええんじゃ…」

 

 

「ES-355」

さらに盛り上がってまいりました!(猛爆)ギターといえば、最近もギターに関わることでワンダフルな体験をさせてもらっている。

 

前々回のコラムで、最近 Gibson の赤い ES-355「フレディー」をメインギターとして愛用していると書いた。フレディーがあまりに良いギターで、「こいつがトラブったらどうしましょうか?」と、去年の夏頃から考えていた。いろんなギターサイトを覗いちゃー「かっこ良い 355 ないかなぁ…」と探し始めたが、355 自体の数が少ないので、なかなかこれだというものを発見できない。しかしアメリカ本国の Gibson のサイトで、劇シブの色の 335(355 ではなく 335)を発見。モス・グリーンというか、オリーブ・グリーンというか…濃い緑色で、なかなか ES シリーズではみかけない色だった。でもそれが自分のフィーリングに「ガビーン」とヒットしてしまったのだ。しかし… 355 ではなく 335 だった。335 には基本仕様ではビグスビー(ビブラートをかけるビヨンビヨンのことですw)が付いていないため、「これにビグスビーがついてたら最高なのにな…」と思った。Gibson Japan の方に素直にその気持ちをぶつけてみた。「あの 335、日本に入ってきませんかねぇ…?」、しかし返事は「全世界ですでに完売、日本からのオーダー分も完納済」とのこと…。

 

ちょっとしょげてたら、話は思わぬ方向に行った。「作れるかどうか、本国に訊いてみます」となった!「『横山モデル』というわけではなく、日本限定という形で企画を出して、通ったら1本モニター枠をご用意します」とのこと!アーチスト・モデルとなると契約や法務上の手続きなど、実現するまでの道のりはかなり長い。素直に考えて、オレの希望を汲む形を最速で実現させるにはそれが1番だ、と Gibson Japan の方も考えてくれたのだろう。それで全然いいです、この企画は是非通ってもらいたい!

しかもオレが Gibson のサイトで見たのは 335、実はオレが手にしたいのは 355。装飾の部分…例えばヘッドのインレイやポジションマークなどが 355 の方が豪華なのだ。レスポールに例えると、335 がスタンダードなら 355 はカスタム、という感じだろうか。それにビグスビーも付いてるなんて…。「通りますように、通りますように…」と願ってたら、通ったとの報告をもらった!しかもアメリカもヨーロッパも気に入ったらしく、ワールドワイドでの発売となったとー!しかもちょうど生産の形が整ってたところだったので、意外と早く出来上がるのではないだろうかとー!

わくわくして待ってた3月のある日、「出来上がったので持っていきます」との連絡が!「工場の責任者も連れて行きます」とのことで…なにやらタダごとではない雰囲気が。日本からの出向でいっている人が帰ってきているのかなぁとか想像しつつ待ち合わせの場所に行くと、Gibson Japan の方と一緒に待っていたのはアメリカの Gibson Memphis のリサーチ&デベロップメント(研究開発部門)責任者 Mike Voltz 氏とゼネラルマネージャー(つまり…最高責任者)の David Winters 氏…。部屋に入って2秒で思いもよらぬ「ナイストゥーミーチュー!」だったのだ(猛爆)そしてギターのハードケースを開けて「It’s your idea! Thank You!(君のアイデアがこうなったよ!ありがとう!)」と言うのである。オレは口では英語を喋っていたが、心の中では「もんげー!ありがとうはこちらずらー!」と叫んでいた。

さてここで「Gibson Memphis(ギブソン・メンフィス) って何?」とお思いの方もおられるだろうから、軽く説明しておこう。

「現在のギブソン製品は、ナッシュビル(レギュラー・ライン、カスタム・ショップ)、モンタナ(アコースティック)、メンフィス(ESシリーズ)と、部門ごとに生産拠点を持つ。2000年に ES シリーズの生産拠点として発足したギブソン・メンフィス・ファクトリーは、2013年にカスタムショップから独立した新ブランドで、ギブソン社のナッシュビル・ファクトリーから切り離された独立工場」とのこと。

つまり近年の ES シリーズなどの「箱モノ」は、Gibson Memphis が生産しているということだ。ふむふむ。一口に「Gibson」とは言っても、Gibson USA、Custom、Montana、そして Memphis と現在4つの生産ラインがあるわけだ。独立した新ブランドなんて…ES を弾いてる身としてはとても楽しみじゃないですか!

ちなみに今回のギターは「Gibson Memphis ES-355 Bigsby VOS 2015 Olive Drab Green 」という名前で、すでに国内でも販売されている。もちろん若い出来立てほやほやのギターなので全然音が若いが、弾き込めば1〜2年でどんどん自分の音になっていく。今後ステージでも弾くだろうし…なにしろ楽器店やネットでこのギターを見かけたら「これって健のアイデアなんだ…」って思ってくれて構わない(キリッ)。

さてさて、名前を決めようか…3月のある日と先述したが、オレの手元にギターが来たのが3月18日だった。アメリカ時間では3月17日…3月17日は「セント・パトリックス・デイ」。これはカトリック教徒のお祝いの日だ。オレはカトリック教徒ではないのでまるで関係ないのだが、セント・パトリックス・デイは、みんな緑色の物を身に着けて祝う。緑が象徴的なカラーなのだ。セント・パトリックス・デイに届いた緑色のギター…「パトリック」と命名した。

とてもワンダフルだ。

 

「届いた Gibson Memphis ES-355 Bigsby VOS 2015 Olive Drab Green。写真右が David Winters 氏、左が Mike Voltz 氏。ギターにはまだピックガードが付いてなく、この後黒いピックガードを付けたらルックスがグッと締まりました。」

 

 

「Fred W. Gretsch 氏」

そしてその数週間後、またワンダフルなことが…Gretsch の社長 Fred W. Gretsch 氏が来日して面会が実現したのだ!これはツイッターやインスタでも公表していることだからご存知の方もいらっしゃると思うが、時間も遡ってどういう経緯があったのか話させてもらいたい。…ちょっと長くなるけどジックリと書くぞ。

 

まず最初に、基本的な情報として知っておいてもらいたいのが、まず Gretsch とは130年の歴史を誇る、アメリカのギターのブランドだ。日本では「神田商会」という楽器総合商社が代理店となっている。文字通り、東京の下町「神田」に拠点を置いている。楽器街「お茶の水」のすぐ近所だ。

 

さあ、行きましょう。

コホン…えー、オレはここ数年ギターをお茶の水の「イシバシ楽器」で買うことが多くなった。ミナミちゃんの長年の友達の倉持くんという人が店員でいて、お店を閉めた後にゆっくり試奏させてくれたり、なにかと良くしてくれるのだ。オレもすっかり友達になって、安心してギターを買えた。

去年2本目の Gretsch を倉持くんから買った。また閉店後のお店にお邪魔して試奏させてもらうことになった。仕様違いのものや塗装違いのものを数本用意してくれていた。さらにそこに、倉持くんが神田商会の Gretsch 担当の人を呼んでくれた。「健さん最近 Gretsch の知識つけすぎてて、売る側のボクでも話についていけないから」と言いつつ呼んでくれたのだが、きっと倉持くん的には「繋げてやろう」って気持ちがあったのだろう…なんかそういうのをビリビリ感じて嬉しかった。そしてやって来た神田商会の人は猪郷さんという人で、倉持くん曰く「日本の Gretsch を作ってる人」だそうだ。これはいろいろと訊き甲斐がある!

その後オレは猪郷さんと直接やり取りするようになった。ほぼ毎日のように Gretsch の話をし始めた。今でもしてる。「これこれこういう仕様で音を出したらどういう音が予想できるか」とかいう真面目な話から、「今日海外のあの店のサイトでこんな Gretsch があったー!これは見たことない!ヤバい!」とかどうでもいいようなやり取りまで…まるで「2人 Gretsch ファンクラブ」のようである。とは言え…ほとんどがオレの質問や話に付き合ってもらってるだけなのだがwww しかしこれがホントに楽しいのだ。

昨年末のある日、猪郷さんからこんな連絡があった。「健さん宛に、Gretsch の社長から手紙が来てるんですけど…」、社長から手紙!?オレ宛に?なぜ!?

どうやら猪郷さんから神田商会の上司や貿易担当の人を通じて、オレが Gretsch のギターを最近使っているという話が社長まで届いたらしく、とても喜んでくれているとのこと…。しばらくして猪郷さんから手紙が郵送されてきた。…本当に社長からの手紙だった。「私と妻は君がグレッチをプレイしてくれると聞いて嬉しく思ってる」…本当に喜んでくれてた。なんか信じがたかった。なぜアメリカの名門楽器メーカーの社長が、日本の一介のギタリストに手紙を?…そこには Fred 氏と奥さん Dinah さんの理念と壮絶な歴史があると、オレは理解している。

調べればすぐわかることだが、ほとんどが英語のため、翻訳が面倒な人のためにザラッと(本当にザラッとw) Gretsch の歴史を書いてみよう。

Gretsch には130年の歴史があり、創業はなんと1883年。現在の Fred 社長は4代目とのこと。もともと Fred 氏のお爺さんが始めた会社で、初代の亡き後 Gretsch 一族で会社を順調に発展させ、ビートルズ、チェットアトキンスやエディコクランの使用により、50年代に第1次黄金期を迎えた。しかしその後、レスポールやストラトキャスターがメインストリームを席巻し、Gretsch は勢いを失う。そして遂には、経営権を別の会社に手放してしまった。その後さらなる人気の低下、工場の大火災などもあり、1981年に遂に Gretsch はギターの生産から手を引いてしまう。

しかし Fred 氏とビジネスパートナーである妻の Dinah さんは、1989年に経営権を獲得。Gretsch が Gretsch 一族の元に戻ったのだ!これは Fred 氏の念願だったようだ。そしてちょうどギター生産から手を引いていた時期に Gretsch を弾きまくっていたギターヒーロー、ブライアン・セッツァーのシグネイチャーモデルなどを打ち出し、順調に再び軌道に乗せ、いま正に第2次黄金期といわれるまでになった。

Fred 氏が体験したことを想像すると、そしてオレ宛に届いた手紙に目をやると、「一族としての誇り」と「新しいことへの飽くなき探究心」が見えて来る。そして世界中にいる Gretsch 関係者を「ファミリー」と呼び、オレは正に「新しいファミリーの一員」として迎え入れられようとしている。企業のトップには、これを出来る人と出来ない人がいる。どちらでも企業自体は順調なものは順調に、沈むものは沈んでいく。ただし、トップがそれをするかしないかで、企業の体質というものが大きく分かれていくのだ。Fred 氏はそれを、きっと無意識にやれる人なんだ。むしろそれ自体を喜びと感じることができるリーダーなのだ。つまり、Gretsch には「ファミリー感」がとんでもなく溢れているのだ。

恐らく、名門一家としてノホホンとしていたわけではなく、経営権を手放してブランドイメージが落ちるところまで落ちるのを見ていることしかできなかった経験が、今のファミリーへの感謝に繋がっているのだ。そして新しいファミリーを迎えるにあたって、どれだけ自分たちがオープンか見せるのだ。

実はオレが Gretsch に強く惹かれているのは、その「ファミリー感」だったりもする。1通の手紙がそう思わせてくれた。オレがいろいろと妄想しすぎなのだろうか?いや、あながち妄想だけではないと思う。事実(事実とはいえ個人的な印象に過ぎないのだが…)、猪郷さんからも、猪郷さんの上司の重田さんからもファミリー感は滲み出ている。「Fred イズム」とでも呼ぶべきものを、オレはどうしても感じずにはいられない。

もちろん Gretsch のギターは、物としてカッコ良い。どのギターもすごく美しくてカッコ良いのだ。そして弾くととてもユニークで、思わずのめり込んでしまう独特な何かを持っている。それらも当然オレが惹かれる要因だ。それはギターについてのことだから当たり前だ。決定的に惹かれたのは、社長がオレに手紙という形にして見せてくれた「ファミリー感」なのだ。

その手紙にはアシスタントの人のメールアドレスも記されていて、「いつでもコンタクトしてくれ」と書いてあった。オレはソッコーでメールし、感激を伝えた。今でも新しい Gretsch を手に入れると、そのアシスタントの人に変なエピソードも交えて間抜けなメールをするのだが、とても優しく受け止めて返信してくれるw

とんでもない事になってしまった…。ミナミちゃん→倉持くん→猪郷さん→神田商会の方々→Fred W. Gretsch 氏なのである…。

数ヶ月うっとりしてたら…また猪郷さんから連絡が。「Fred 社長が3月に来日することになりまして…『Ken に会いたい』って言っているんですけど…ご都合いかがですか?」なんですってー!?Fred 氏が直々に…オレに会いたいですってー!?それは…それは万難を排して行かせていただきます!!!

 

面会の日は3月下旬にセッティングされた。オレは「日本のお土産でも持参しよう」と思い、カミさんに相談した。「何を渡すん?」と訊かれたので、「なんかいかにも日本っぽいもの探そうと思いよんじゃけど…とりあえずネットで探してみようかな。」と答えた。するとカミさんに怒られた。「ネットなんかじゃいけん。Gretsch の社長さんに、誰でも買えるようなもん渡すわけにはいかんじゃろ。」…そりゃそうだ。

そんなカミさんの一喝で、オレは家族を連れて有名百貨店に行くことになった。いかにも日本的なものを置いてあるフロアに行き、店員さんにもっともらしく「アメリカから大事なお客様が来るので…」と言う自分が楽しかったw 店員さんにもいろいろアドバイスをもらった…が、ここでも大活躍したのがカミさんであるw あれこれ探しちゃー「これなんかどうじゃろか?」「これなんかジャパーンって感じで喜ばれそうじゃがー!」と楽しそうである。今回は来日されない奥さんの分も含めて夫婦物やそれぞれの品物など数点用意したのだが、結局ほとんどがカミさんの選んだものだった。唯一 Fred さんへのものはオレが選んだw

面会の日を迎え、神田商会のショールームに時刻通りに行くと、中では Fred 氏が待っていた。そして…YouTube の楽器系の映像で何度も見たことある人がいると思ったら…なんと Fender の Joe Carducci 氏ではないか!もう一人 Fender の大物、Jeff Cary 氏もいた…。実は現在の Gretsch はマーケティング、生産、流通は Fender が担当しているのだ。だから Joe さんと Jeff さんもいたのだ。うわぁ、Fred さんの分しかお土産持ってこなかった…。

そして Gretsch のギターのレギュラーラインは、日本の「寺田楽器」というところで生産されている。アメリカにもカスタムショップがあるが、生産本数もグッと少ない。世界中で使われている現行の Gretsch のほとんどが日本製なんて、めちゃカッコイイじゃないか。そういえば Ken Band の名古屋でのライブで、オレが Gretsch を弾いてて、MC でちょっとGretsch のことを話し始めたら…モッシュピットから「健さん!そのギター、オレが作った!」という声が聞こえた。ライブ後にその職人さんとも話をすることができたし…なんかすごい繋がりじゃないか。

話を戻そう。Fred 氏は…気品があり名士という雰囲気を漂わせていた。挨拶を交わすと「君のことをよく YouTube で見てるよ」と言われた。すでにテンパった。お土産を渡しつつ、「座っていいですか?」とまさかの発言をしてしまったw

しかしテンパって座ったことが功を奏しw 全員が着席し、落ち着いたミーティングがスタートした。1時間ほどいろんなことを話せた。印象的だったのが Joe さんがオレにすごく興味を持ってくれたこと。「どうやって Gretsch にたどりついたのか」と興味津々に質問された。Joe さんも言ってたのだが、「まるでインタビューのようだな!ハッハッハ!」という感じだった。Jeff さんにも「最初にギターを弾き始めた時、ヒーローは誰だったか」とか、いろいろ訊かれた。「Randy Rhoads と Eddie Van Halen がヒーローだった」と答えると、「2週間前に Eddie のスタジオに行って来たばっかだよ」と言って写真を見せてくれた。失禁モンである。肝心の Fred 社長はそういう話を黙って聞いてて、相槌を挟んでくれる。

 

Fred 社長は独特の言い回しをする。箱モノのギターのハウリングについて話している時、「私には、キミがそれをコントロールしていると聞こえるよ」とか、自分が今まで歩んできた音楽の道のりについて話すと「私には、キミはチャレンジしてスタイルを切り拓いてきたと聞こえる」とか…。英語では良くある言い回しなのだが、自分に自信があって、修羅場をかいくぐってきたキャリアがあって、尚且つ相手を尊重していないとあの感じの言い回しにはならない。オレはそのたびに照れて「サンキュー」ということしか出来なかった。社長の言葉にさらに何かを重ねようとするけどできない、なんかそれくらいの説得力というか、大きな人間力を感じた。

なんていうんだろう…こういうのを世間的には「カリスマ性」とか言ったりするのかなぁ?

面会も終わり、表で記念撮影もした。オレはその場にあったブライアン・セッツァーの新しいシグネイチャーモデルのスパークル・グリーンを手にして写真に収まった。

なんということだ…ミナミちゃんと倉持くんから始まったご縁が、こんな機会に繋がってしまうとは…つくづく周りに恵まれているなぁと感謝する次第だ。

興奮して家に戻ると、またカミさんの出番だ。こんな顔ぶれで、こんな話しして、こんな事があって…と説明してたら、「社長にちゃんとお土産の説明したん?」と訊く。「いや…他の人もおったからせんかったよ。」というと、「プリーズオープンナウ言わんかったん!?どうするん?あの飾り扇子とか、知らずに使われたらいけんが!ちゃんと『あれは飾り用です』言わにゃ!社長が恥ずかしい思いするかも知れんが!」…そうなのだ、オレが社長に自分で選んだ一点とは、飾り扇子だったのだ。「…そんなん、飾り用の台も入ってるんだし、箱開けりゃわかるじゃろ…」そう言っても、カミさんは心配ゾーンに入り切って、「メールせられぇ」と言う。メ、メール!?お土産の件でメール!?

…その夜、オレは猪郷さんに「社長に転送して下さい」と渋々メールした。「扇子がありますが飾り用で、実用品ではありません。夫婦湯のみがありますが、日本では緑茶を入れるものなのですが、なにを入れて飲まれても差し支えありません。飾っても結構だと思います。赤い柄の包みはボクの妻から Dinah さんへのもので…」などなど…(猛爆)

翌日、アメリカに帰国する際に、湯のみは手荷物として機内に持って入ってくれたそうだ。そして帰国後、オレに直接メールをくれた。そこには「Ken と奥さんが私と妻のためにいろいろと探してくれたプレゼントがとても嬉しい、ありがとう」と書いてあった。…うちのカミさん、猛烈過ぎる。

そういえば今回の Fred 社長の来日、本当の目的はなんだったのだろう?訊いてみると、どうやら先述の寺田楽器の職人さんで、もう引退される方がいらっしゃるらしい。せっかく来日するのだから様々な所用をこなしたのだろうけど、どうやらメインの目的はその職人さんに会うことだったらしい。思い出してみると、社長は帰り際こう言っていた。「私はこうやって世界中の自分のファミリーに会いにくるのが好きなんだ。」…オレが感じてた「ファミリー感」は本物だった。

やっぱり世界は感謝や愛情といった想いでできているのだ!うーん、これは我ながら妄想しすぎかなぁ?

でも Fred W. Gretsch 氏との出会いを通じて、こんな殺伐とした世界でも、なけなしかも知れないけど、そのなけなしを強く!想いとして持ってなきゃいけないと実感させられた。

オレ、いまではいろんなギターを弾く。Gibson、ESP、もしかしたら今後 Fender を手にすることがあるかもしれない。今はまだ縁がないブランドのギターを抱えることもあるかもしれない。それはそうだ、ギタリストとして自分の直感を信じて、行きたい方向にいくべきだし、それはそうじゃないとウソだ。

こういうことには必ず契約事が付いて回る。それはビジネスの世界なのだから当たり前だ。

どこのブランドにもお世話になっている。オレはそういうのは「人」だと思ってやってきているけど、結局ビジネスでは「対会社との契約事」が大事になってくるし、イヤでも最終的にはそれが待っている。でも…契約事とかじゃない、どこのギタリストとかそういうんじゃない、どこのブランドが上だとか下だとかそういうのも言うつもりもない、生っちょろいかも知れないが、自分の正直な気持ちの話で。

 

オレは Gretsch ファミリーの新入りとして、お世話になっている方々に恥をかかせないように、カッコ良くキメて生きていきたい。


「New Gretsch family!! 左から神田商会・猪郷氏、Joe Carducci 氏、オレ、
Fred W. Gretsch 氏、Jeff Cary 氏、神田商会・重田氏。」

 


「Fred 社長と。上の写真はオフィシャルサイトでも掲載しているのですが、この写真は初公開です。すごく特別なギターに社長のサインをもらっているところ。すごいことになりました。そのうち「Guitars」でも紹介します!」

 

「あ、そういえば」

Ken Yokoyama 6枚目のアルバムのレコーディング、終了しましたw 前回のコラムで「終わったら様子を報告する」なんて言ってたけど、次回にしよっかな(猛爆)

レコーディングでの経験、いろんな素晴らしいことを話したいし、曲調も広がり変化してきたから、どう変わったとか、こんな曲があるとか、なぜ変わったかの理由も話したい(まだ自分でも言語化できないから考察したいなぁ)。アルバムのタイトルもほぼ決まったから…とにかく話すことはいっぱいあるのだ(まぁ最終的には「聴いてくれれば早い」で終わっちゃうかもしれないけど猛爆)。

今回これ以上書くと、完全に「読まれない確率」が高いためwww、なるべく早く次回書きます。

そいでは、またね。


「レコーディング終了!」

2015.04.22

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