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『横山健の別に危なくないコラム』

vol.85

「書籍化」

なんでも長くやってみるものだ。2002年になんとなく始めた当コラムが、なんと書籍化される運びとなった。

足かけ12年、頻繁に更新したり、何ヶ月も更新しなかったり、気ままにやってきた。
なんでこのタイミングで本にするのか…考えてみると、昨年に映画「横山健 -疾風勁草編」を公開した。映像で自分をまとめることができたので、次はぜひ文章もまとめたいという気持ちに、オレ自身もなっていたのだろう。
でも「本にしたいよー!」とオレだけが思っても、誰かの力を借りないとできるわけない。実は今までにも何回か書籍化の話はあったにはあったのだが、いつも気がつけば自然消滅していた。
しかし今回は育鵬社という出版社の山下さんという方が企画を持ち込んでくれて、お互いの熱意がかみ合った。オレも山下さんも、ピザオブデスの担当も、「良いものにしよう」と熱意を込めて書籍化に向けて動いた。オレにとっては慣れない編集作業も丁寧にやった(つもりだ)。
改めて思ったのだが、物事が進むのにタイミングというものは大事だが、物をいうのは…偶然通りがかったタイミングを活かしてくれるのは、やはり熱意だ。
この書籍のタイトルは「横山健 -随感随筆編」と付けた。
感じとしては「疾風勁草編が映像編、随感随筆編が文字編」だ。そう位置づけたくなったし、それに値する本になったと思う。
「随感随筆」という言葉は、思うままに感じるままに書き付けること。正に当コラムにピッタリな言葉じゃないか。
内容は当コラムからの抜粋集になっている。全部本に載せるとすごいブ厚さになってしまうので、自分で気に入っている文章、自分にとって転機となった事項を書いた文章など、いくつかを抜粋させてもらった。それでも入れたかった項はほとんど入れられたと思う。
それに「前書き」と「後書き」を書き下ろした。前書きには「なぜ書籍化するのか」というオレの想いを、後書きには「オレから手に取って下さった皆さんに宛てた手紙」という形で寄稿した。原発について、音楽形態の在り方について、自分が関わっているバンドについて、昨年末の時点での素直な気持ちを文章にできた。
ご縁がある方はぜひ書店等で手に取ってみて欲しい。きっとネットでなんとなく読んでいる時と、同じ文章を読むのでも、あなたの心への残り方は違うはずだ。
なにしろ、自分の書いた文章が本という形になって残る、この事実が単純に嬉しい。
そして、またこのまま10年くらいコラムを思うがままにツラツラと書き進めていったら、それも書籍化できたりするのかなと思うとワクワクする。
繰り返すが、なんでも長くやってみるもんだ。


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「ワールドカップ」
さて、今年はサッカーのワールドカップイヤー。ワールドカップと言えば、オレには一つ話すべき事がある。というか、そろそろ話す時が来たようだ。
2002年の日韓共催大会についての…オレが12年もの間、公で話さなかった大事な話だ。

皆さんの興味を引くためにも、これは「日本をワールドカップで初めてベスト16に連れて行ったのは、『トルシエ・ジャパン』ではなかった」という衝撃の内容だ、ということをまず明かしておきたい。
心して(いろんな意味で)読んで頂きたい。
まず予備知識として知っておいて頂きたいのは、2002年の日韓共催大会から遡ること4年、1998年のフランス大会で日本はワールドカップ初出場を果たした。しかし予選リーグで3連敗を喫し、なす術もなく姿を消した事。Jリーグも発足してまだ数年だったこの頃、多少の盛り上がりは見せてはいたものの、ワールドカップ初出場が日本サッカー人気の大きな追い風になるには少し足りなかった。
次に2002年の日韓共催大会、共催とはいえホスト国としての役目もあるので、大会前から報道は過熱、さらには結果として初の「ベスト16」に進んだこと等で、この大会後の日本のサッカー、特に代表戦に於いては大きな盛り上がりを見せた。日本サッカーの人気を日頃は関心のない一般層に浸透させたのは、この時の日本代表の活躍だ。オレの個人的視点も大いに入っているが、「あぁそうだったんだ」程度に認識しておいてもらえると、この後が楽しく読めると思う。
さてさて肝心の話を始めよう。時は2002年、日韓共催となったあのワールドカップ。オレも開会式からテレビの前に釘付けだった。開会セレモニーが華やかに放送されている生中継の番組を観ていた。ゲストに SMAP の木村拓哉さんが呼ばれていた。そりゃそうだ、当時キムタクといったら男も羨むほどの大スターだ。こういう華やかな場所には当然マッチする。
放送の流れの中で女子アナウンサーがなんとなく木村さんに質問した。「木村さんは日本代表に誰かお友達とか…いらっしゃるんですか?」木村さんは少し照れくさそうに「えぇ…まぁ」。女子アナウンサーは追い討ちをかける、「えっ!えっ!どなたなんですか!!??」木村さん「えぇ…、まぁ…7番の方と…。」女子アナウンサー「7番!?7番っていうと…中田選手じゃないですかーっ!キャーすごーい!大会前とかお話しされました??」木村さん「まぁ…今日も電話で『がんばって』って言ったくらいですけど…」女子アナウンサー「キャー!中田選手と木村さんのホットラインなんて素敵ですー!カッコいいーーでーすーーー!!!」
…確かにこのチームの不動の司令塔である中田選手と木村拓哉さんのホットラインなんて、カッコいい。…カッコ良過ぎる。…カッコ良過ぎてむかつく。オレに怒る筋合いなどこれっぽっちもないのだが、カッコ良過ぎて心底むかついた。
そこでオレはある行動に出るのだが…実はこの日本代表に、オレの友達も選出されていたのだ。名前は「戸田和幸」、当時は清水エスパルスの選手で、ポジションは守備的ミッドフィールダー。
オレは「マイアミの奇跡」を起こした伊東輝悦選手と友達だったので、よくエスパルスの試合を観に行ってたのだが、彼らは試合後にいろんな選手を呼んでの食事会の場をよく設けていた。オレと戸田選手も、そんな「伊東会」で友達になった。
戸田選手は、代表の監督がトルシエさんになるまで日本代表に招集されることはなかったが、あまり日本人がやらないようなガッツあふれるラフプレーがトルシエ監督の目に留まったのか、トルシエ・ジャパンには欠かせない選手となり、レギュラーにも定着。「トルシエ・ジャパンの申し子」的な存在となった。

その戸田選手にオレは電話をかけた。たぶん内容は…
戸田:「あ、健さん、どうしたんっすか?」
横山:「いやぁ、開会式みてて、中田とキムタクがホットラインとか言って、女子アナがかっこいいとか言ってキャーキャー騒いでるからさー。なんかむかついちゃってさー。ここだってホットラインよなぁ?」
戸田:「間違いないっす」
こんな下らない内容だったと思う(猛爆)
ここでサッカーをご存知の方なら当たり前のことを説明するが、トルシエ監督は「フラット3」という独特のディフェンス戦術を用いた。通常4~5人置くべき守備の選手を3人にし、その3人の動きの連動性で相手のオフサイドという反則を誘い(これをオフサイドトラップと呼ぶ)、相手の攻撃陣に攻めづらくさせるという戦術だ。しかしこれは諸刃の剣で、少しでも3人のディフェンダーの動きが乱れると、相手が一流の場合、あっさりとその綻びをみつけられて突破され、得点されてしまう。そうなった場合、真っ先に走ってって体を張ったラフプレーで相手を止めるのが、他ならぬ戸田選手だった。
このトルシエ監督がフラット3にこだわり続ける事に対する議論は、それこそワールドカップの試合当日が近づくにつれてヒートアップしていった。テレビのスポーツニュース、スポーツ雑誌、スポーツ新聞…オレの記憶が定かならば、恐らくどのメディアもこのフラット3には懐疑的だったはずだ。
簡単に言うと、日本中が「フラット3は止めて下さい」と思っていたわけだ。

しかし、サッカーというものは、我々が思っている以上に「監督のもの」らしい。ある選手にも聞いたのだが「監督がどういうサッカーをしたいか、ピッチ上の選手はそれを表現するだけ」だと言うのだ。総合的なビジョンが監督の頭にあって、それを選手が「戦術」として理解してプレイとして表現する。なるほど、だから「あんなに良いチームだったのに、監督が変わった途端ダメになったな」ということはサッカーに於いてはよく見かける気がする。
それだけ監督は「絶対的」なのだ。
トルシエ監督が「フラット3だ」と言えば、いくら関係者やサッカー解説者がどうこう言ったとしても、それはもう「フラット3」なのだ。
そんなサッカーファンの「トルシエ監督のフラット3に対する論争」の中、日本代表は遂に初戦を迎えた。相手はヨーロッパの強豪国、ベルギーだった。自国で試合するという大きなアドバンテージが日本にはあるものの、ベルギーの実力は当時の日本より数段上と見られていた。
結果からいうと、2-2の引き分けだった。格上相手によく健闘したがしかし、勝てた試合だった。後半に激しい点の取り合いになったこの試合、一度は日本は2-1でリードしたのだが、肝心なところで例の「フラット3 」がオフサイドトラップに失敗し、ベルギーの同点弾を浴びた。
当然、試合直後からテレビでのスポーツニュース、報道番組などで結果は伝えられ、サッカー解説者を呼び、試合の検証作業に入っていた。もちろん日本の健闘は称えはするが、「フラット3が肝心なところで機能しなかった」点を検証、場合によっては非難にも近い論調を打ち出した。そして翌日の新聞には「フラット3崩壊」の文字が踊った(イメージです)。
惜しかった。本当に惜しかった。惜し…過ぎる。あまりにも惜し過ぎるので、オレは戸田選手に電話した。この時点で普通は頭がおかしいっちゅーモンだが、タブーに触れてなんぼの横山健、電話口でこう言った。
横山: 「お疲れさん。ところであのトルシエさんの『フラット3』、どうなの?ダメなんじゃないの、やっぱり」
戸田 : 「…うーん、やっぱりそうっすかねぇ?」
いや、戸田選手、待ってくれ。そんな意見はきっと吐き気がするほど聞いてるはずだ。それにオレはサッカーなんかド素人なんだし…こんなのただのブッ込み電話でしょ?
しかし、オレはひるみながらも続けた。
横山: 「だってオフサイドトラップに失敗したら誰が追わなきゃいけないの?守備的なポジションのキミが追うわけでしょ?運動量ハンパないっしょ?」
戸田: 「そうなんですよねぇ。…やっぱダメなのかなー!」
いや、戸田選手、待ってくれ。そんな意見はきっとゲロが出るほど聞いてるはずだ。それにオレはサッカーなんかド素人なんだし…こんなのただのブッ込み電話でしょ?
しかし、別のJリーガーからこんなことを聞いた事があった。
「現役のサッカー選手は、元選手とか解説者とかそのあたりの意見を一番聞かない。」
これは逆説的に何を意味するかというと…ド素人に言われることが一番効くのではないか、ということ。
もはやどうやって電話を切ったか記憶にないが、翌日のサッカー関連のニュースには「戸田と宮本を中心に、選手だけの異例のディフェンスミーティング」と載ってた。議題は推して知るべし、もちろん「フラット3、オフサイドトラップ」についてだ。
もし仮に…このミーティングで「オフサイドトラップをなるべくしない」などと申し合わせがあったとしたら、もはやこれはトルシエ監督に対する造反だ。
もしこの造反劇に…オレが戸田選手に電話で話したことが…ほんの少しでも加担していたとするならば…「ゴクリ」である。
事実、次の2戦目、対戦国は強豪ロシア。しかし守りに厚みを持たせて、なんと強豪ロシアに1-0で勝った。ディフェンスの3人がベルギー戦の時よりも守りに徹した、つまりトルシエ監督の看板策である「オフサイドトラップ」を仕掛けなかったということだ。そしてロシアを完封しちゃったのだ。更には、日本に記念すべき「ワールドカップ初勝利」をもたらした。

ちょっと意地の悪い言い方かもしれないが、日本のワールドカップ初勝利は、「監督の看板策に従わなかった」末にもぎ取った…そんな風に受け取ることはできやしないか。

勢いづいた日本は予選最終戦のチュニジア戦、これまた2-0で勝って、なんとグループ首位で決勝トーナメントに勝ち上がった。世界の「ベスト16」に昇りつめたのだ!日本中、文字通り「大フィーバー」だった。
決勝トーナメント初戦でトルコに破れ、ベスト8入りは逃したものの、日本サッカーは「ワールドカップ」という世界の檜舞台で初めてベスト16まで行ったのだ。
大会が終わると、結果を出した日本代表は評価され、選手達は様々なメディアに登場し、時の人達となった。中心選手であった中田選手はほぼ神格化され、他にも多数の選手をテレビで観る機会が増え、数人は海外のクラブに移籍を決めた。比較的地味な存在だった(失礼)戸田選手も数社のCMに起用されるなど…まぎれもなく社会現象であった。経済効果もかなりのものだっただろう。
…さあここでちょっと考えてもらいたい。ここまでオレが話したことを全て事実だと思ってくれるなら…いや、もちろんこの話はずいぶん時間が経っている上に、オレも鉄板ネタとして近しい友達に何度も話していった中で、多少は盛っている部分だってある(猛爆)

しかし全て本当の話だ。

信じてくれる人に呼びかけたいのは…本当の意味で日本をベスト16に連れて行ったのは…トルシエ監督じゃなく、横山健だったんじゃないか?
実はあの大会の大事なところで…「トルシエ監督」から「横山監督」に変わってたのではないか?結果としてベスト16に連れてったのは「横山ジャパン」なんじゃないか?
今年も盛り上がるであろうワールドカップ日本代表も、そこで動く莫大な金も、…全て「横山ジャパンから始まったんじゃないか?」
これにてサッカーの話は一旦終える。サッカー関係者の方々、熱烈なファンの方々で偶然この文章を読んで、もしお気を悪くされたとしたら、申し訳ありません、この文章はただのエンターテイメントです。
一方これを読んで「世の中って案外そういうことが転機になったりするから、…オレは健さんの話を信じるよ」っていう人がいたら…ホントこの話ぜーんぶマジだから。
ところで、この話には意外なオチがある。
先述したようにオレはこの話を鉄板ネタとして近しい人達に自慢げに話してきた。この話をすると大体が「マジっすか、ヤバくないっすか、それ!」とみんな興奮した振りをして、同時にオレのことを「こいつ、頭おかしい」とも思っただろう。しかしまぁオレのキャラも知ってくれているので、それぞれの冷笑を浮かべながらもみんな楽しく聞いてくれていた。

生前のオレの兄貴にも、この話をした。兄貴はマジメな人間だった。オレが活き活きと話す間、なんとも言えない苦笑まじりの顔をしていた。それでもオレの最後の「つまり日本をベスト16まで行かせたのはトルシエ・ジャパンじゃなくて横山ジャパンだったわけよ」まで黙って聞いてくれた。
話が済んでしばしの沈黙の後、兄貴はこう言い出した。

「健なぁ…オレはお前の兄貴だから、…お前の言うことは信じてやりたいし、信じるよ。…でも…この話は……あまり外ではするなよ。な?頭おかしいと思われちゃうからな。いいな?」

優しい笑顔と、まるで全然ダメな子を見捨てずに諭すような一言を残して去っていった。ハハハ(猛爆)
この話の中で、この時の兄貴のリアクションが、オレのフェイバリット・ポイントだ。
だから年取った頃の兄貴は、オレは大好きだった。

話はもう一つ変わるが、亡くなった兄貴の娘、つまりオレの姪が、東京の大学に合格して上京した。オレは兄貴の代わりに気にかけて、できるヘルプはしたいし、いろんな面で力になってやりたいと思って、あれこれ余計なお世話を姪っ子にしている。ウザがられてるかどうかは分からんが(猛爆)、代わりにはなれないのは分かってるけど「父親代わり」としてギャーギャーしてる。それもあってか、最近猛烈に兄貴が恋しい。
そして今年の日本代表(まぁオレが育てた2002年のチームの後輩達になるのかなw)の活躍を祈って、今回はおしまい。

2014.09.14

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