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『横山健の別に危なくないコラム』

vol.83

「レーベル内レーベル」

Pizza Of Death Records 内に「レーベル内レーベル」を設立することを決めた。

まず現段階で発表できること…「レーベル内レーベル」第一弾は、Ken Band のベーシストである Jun Gray がプロデューサーを務める、その名も「Jun Gray Records」。詳細は近日中に発表します。

今回は、なんでいまさら「レーベル内レーベル」を始めようと思ったか、そのへんのことを話したいと思う。

まず予備知識から。「レーベル」とは基本的に「レコード会社」の別称。いわゆるメジャーなレコード会社はあまりそう呼ばれることは多くはないと思うが、小さなレコード会社、特に独立系のものは「レーベル」と呼ぶほうがシックリ来るような気がする。

インディーズと呼ばれるあたりは、ほとんど全て「レーベル」と呼ぶのではなかろうか。会社として登記していない、個人事業として CD をリリースしている場合は、会社じゃないので「レーベル」と呼ばざるを得ない。

ピザ・オブ・デスの場合は、会社登記をしてあるが、気持ちは「レーベル」だ。公の場所、例えば職務質問なんかを受けたりすると、「レーベルの主宰者です」と言っても通じないので、「レコード会社を経営してます」と答えるのだが…そんな感じの呼称なんだと理解してもらいたい。

さて、それでは「レーベル内レーベル」とはどういったものか。

大手のレコード会社以外は、大体そのレーベルの色というものが自然とある。もちろんない場合もあるが、「このレーベルは主にパンク・バンドを手掛けている」とか、「ポップ・パンクに強い」とか。地方色を出す場合もある。「関西の良質なバンドをリリースしている」とか。これはパンク界隈に限らず、ジャズでもブルースでもメタルでも、なんとなくそういった色を持つレーベルが多い。色というか、そのレーベルごとの「こだわり」とでも言うべきか。色やこだわりがなくとも、なんとなく「こういう音のバンドならあのレーベルでしょ」とか「あんまりあのレーベルらしくないバンドを出すんだなぁ」とか、他者からイメージされる場合も多い。

そういったイメージから外れた音を持つバンドをリリースしたい時の手として「レーベル内レーベル」がある。

もちろんその場合だけに限らず、独立志向を持ったバンドを手掛ける場合、大元の資本やバックグラウンドを隠したい場合…ここでは書ききれないが、その事情は多数ある。

例えば、以前 Fat Wreck Chords の中に「Honest Don」というレーベル内レーベルがあった。Fat Wreck 自体は全世界的にバンドをチョイスしていたが、Honest Don は比較的サンフランシスコの良質のローカルバンドを中心にピックアップしていたイメージだ。お金の出所や宣伝など、実務面は Fat がやっていた。しかし Fat Mike だけじゃなくもう一人別の管理者もいて、Fat ではできないような細かいケアやバンドのチョイスをして、今はもう活発な動きはなくなってしまったが、それはそれで一つしっかりとした流れを作っていたと思う。

以前 Ken Band でベースを弾いていたサージが来日前に組んでいたバンド「Limp」が、まさしく Honest Don に所属していたバンドだった。他にも Muffs もリリースしたこともあるし、Nerf Herder や Real McKenzies など多くの良いバンドを輩出した。

もう一つ例を挙げると、Epitaph Records 内にある「Hellcat Records」。Rancid の Tim がレーベル・プロデューサーで、それこそ Epitaph 本隊がリリースしたらビックリされるようなバンドを次々と手掛けている。Nekromantix、Tiger Army といったサイコビリー、GBH の様なオリジナル U.K.ハードコア、…Clash の Joe Strummer が亡くなる前にやっていたバンド「Joe Strummer And The Mescaleros」も出した。

Epitaph には他にも「ANTI‐Records」というレーベル内レーベルもあり、こちらはパンク・ロックではない様々なアーチストを扱っている。ずいぶん前に Tom Waits をリリースした時はオレもずいぶんビックリしたものだ。

とてもおもしろい具体例を思い出した。ピザ・オブ・デスだ。ピザ・オブ・デスも元々はレーベル内レーベルとして始まった。

話は1993年まで遡る。ハイスタはあるインディーレーベルと話をして、ミニアルバムをリリースする約束をした。そのレーベルを仮に「X.Y.Z.」という名前にしておこう。「X.Y.Z.」がどういうバックグラウンドを持っていたのか、資金源がどこにあるのか、流通はどうなっているのか、決定権は誰が持っているのか、オレ達3人は全く知らなかった。若くて無知だった。疑いを知らなかったというか…そこまで頭が回らなかった。とにかく1週間かけて6曲レコーディングした。もちろん「X.Y.Z.」の人…仮に「P さん」としておこう。P さんもレコーディングに毎日立ち会った。あとは P さんに任せておけば勝手に CD は出る、オレ達3人は完全にそう信じきっていた。

ところが、待てど暮らせど P さんからリリース日決定の情報は来ない。連絡しても「プレスのお金がないからいつリリースできるか分からない」と言われる始末。オレ達は最初はしょうがないと思っていた。

「大体このあたりにはリリースできるんじゃない?」という大雑把な推測の元、オレ達は勝手に「レコ発記念ライブ」なるものを大々的にやってしまった。しかも、2回もだ。もちろん CD は出ていない。それでも決まらないリリース、煮え切らない P さんの姿勢を前に、「しょうがない」では済まなくなっていった。

何度連絡しても、返事は相変わらず「プレスの金の目処がつかない」とのこと。オレ達は「このままじゃ埒が明かないから、レコーディングの諸費用をあなたに払う人を見つけるから、その音源をこっちにくれ」と言うと、「相手にもよるが、いいよ」とのことだった。金額は60万円弱だったと思う。3人だけではとても捻出できる額ではなかった。オレ達は大至急、しかし当てもないのに、音源を買い取ってくれる人を探すことにした。

その翌日、ライブの用事で電話していた COCOBAT の Take‐Shit 君にオレ達の現状をグチると、彼は COCOBAT が所属している「Toy’s Factory」に相談してくれるという。返事はオッケーだった。Take‐Shit 君はハイスタの恩人だ。

いざ Toy’s Factory でミーティングを持つと、どうやら「気持ちよく買い取らせてもらうが、こうして持ち込まれた音源は Toy’s 本隊でリリースするわけにはいかない」とのこと。当時の社長の裁量で、結局 Toy’s の関連会社が音源を買い取り、インディー流通することになった。当時のオレ達の経験や知識ではどういうことなのかよく分からなかった。理解の範囲を超えた措置だったが、とにかく音源がでるというだけで天にも昇る気持ちだった。

そこで、Toy’s Factory でリリースするわけではないので、オレ達専用のレーベル名が「便宜上」必要だということになった。 それで急遽考えたのが「ピザ・オブ・デス・レコーズ」という名前。すったもんだの末リリースされたミニアルバムを、オレ達は「Last Of Sunny Day」と名づけた。リリースはレコーディングから1年弱たってしまっていた1994年の夏だった。

これがピザ・オブ・デスのスタートだ。

1996年になると、「Last Of Sunny Day」の予想外の売れ行きが評価され、「キミ達の目に留まったバンドをピザ・オブ・デスでリリースしても良いよ」という話になり、Sharbet や Husking Bee をリリースしたり、その後もハイスタのマネージメント会社だった「ハウリング・ブル・エンターテイメント」の傘下にピザ・オブ・デスを移し、Super Stupid のミニアルバムや Thumb をリリースした。

1999年の1月、ピザ・オブ・デスを法人化し、完全に独立した。流通も独自のものを見つけた。つまり「レーベル内レーベル」ではなくなったのだ。そしてハイスタの 3rd フルアルバム「Making The Road」をリリースした。

 

長くはなったが、特別狙いがあったわけでもないのに「レーベル内レーベル」としてスタートせざるを得なかった例もある、と紹介したかった。

これでレーベル内レーベルならではの特色や様々な要因や狙いが、またその存在すらしらなかった人にも「なるほどねぇ」と、少しでもご理解いただけたら嬉しい。

さて今回の件に話を戻そう。オレは今までずっと、ピザ・オブ・デス内には別レーベルは特に必要ない、そう思ってた。事実「必要がなかった」のだ。どんなバンドでも「ピザの新バンド」として紹介できる、紹介する自信がないものはリリースしないのが「暗黙の鉄則」だったこともある。

最初はピザ・オブ・デスは「メロディック・パンクの登竜門」的レーベルだと思われた、と客観的に捉えている。それもそのはず、Hawaiian6の様なメロディック・パンクが大ブレイクしたのだから。でもそこは別に狙いではなかった。それを証明するように最近では Slang、Meaning、The Inrun Publics、SAND といったハードで最高のバンド達がリリースしている。もちろん今後も良質の新しいメロディック・パンク・バンドだって探し続ける。

もう「ピザ・オブ・デスが良いと思ったらピザ・オブ・デスでリリースできる」のだ。

ただ…実はオレにはある悩みがあった。新しいバンド達がピザの扉を全然叩いてこない。最近はデモすら届かなくなってきた。社員が自発的に足を使って探してもいるが、なかなか出会う機会はない。

しかし実際今までだって、デモテープ一発でリリースを決めたバンドはいない。どこかで繋がりがあって、ライブを観にいって話をしたり、一緒にライブやツアーをして初めて「ピザでやりませんか?」ということになる。そういった意味じゃ「縁」も大切にしているのだが…同時に全くの新しい出会いも欲しい。両方を求め始めた自分に気付いた。

そこには現在の「CD の売れ行きの低下」も微妙に関わってくる。別にピザから出すといっても、売れないものは売れない。ただ、ピザ・オブ・デスの近年の体質としてとても自負しているところは、金銭には直結しないものの「バンドの存在感を大きくする手助けはできる」ということ。

もう一点、「バンドを長く続けるためにはどうすれば良いか」を一緒に考えられるレーベルだということ。

他にもうちならではの良い点がいっぱいあると自負しているのだが、いかんせん、バンドとの出会いの機会が少ない。ハードルが高いと思われているのか…?しかしもし多くのバンドを抱えたとしても、社内で完璧にこなせる体制があるかというと、それも心許ない。

そこで出たアイデアが「レーベル内レーベル」だ。

ウチの場合の特筆すべき点は「一人しっかりとプロデューサーを立てること」。そのプロデューサーとバンドと、そしてピザの3者でやり方を考え決めていくのだ。

Jun Gray Records の場合、Jun ちゃんは、ガールズ・ボーカルのバンドが好きだ。前々から「Jun ちゃんそこに特化したレーベルでもやればいいのに」と冗談レベルで話していた。そしてひょうたんから駒が出た。なんとなくタイミングなんじゃないかと思って、オレは Jun ちゃんを本気で説得した。最初は「オレはレーベルのやり方なんかわっかんねぇよ、金の計算もめんどくさいし…」なんて言ってたが、それをピザ・オブ・デスの事務方が部分的に実務面を引き受けることを条件に、「Jun Gray Records」を設立する運びとなった。今は本人もノリノリ(のはず)だ。

なので、プロデューサーの人柄やセンス、熱量が大きな「キー」になっていくだろう。

Jun ちゃんの持ち味は、彼の人当たりの良さからか、若手にも好かれてコネクションがあること。本人も意外といろんなバンドを調べたり観にいったりしてる。とても研究熱心なのだ。

あくまでも Jun ちゃん個人の嗜好の範囲のことに、ちょっとフックアップの気持ちを足せば成立しちゃうんじゃないか?オレはそう考えた。レコーディングの進め方や印税の仕組み、宣伝の仕方やツアーの組み方など、Jun ちゃんはほとんど知識がない。でも好きなバンドを気にかける姿勢は、オレの知る限り、とても強い。

だから Jun Gray Records に関しては、大前提として「バンドの活動に関することはバンド自身でやる」姿勢を持ったバンドが望ましいとは思う。もちろん事務的なことはピザがフォローする。ツアーのブッキング等相談されればやるが、基本「セルフマネージメントできるバンド、したいバンド」が合うのではないだろうか。そしてバンドの精神的ケアをしっかり Jun ちゃんがやれば「Jun Gray Records」は成立すると思う。

オレは Jun ちゃんが、思いも寄らぬバンドを持ってきて「この子達すげぇいいんだけど…出したいなぁ」と言う日がくるのを心待ちにしている。

 


「Jun Gray Records ロゴ」

 

さて冒頭で「第一弾は Jun Gray Records」と書いたが…実は Jun Gray 以外にも、すでに3人のプロデューサーと話をして決めている。つまり「Jun Gray Records」とあわせて「4つのレーベル内レーベル」を設立するのだ。

その3人は、人間としてオレがとても信頼している人達で、それぞれに持ち味が違う。そして、オレじゃ全く届かないようなコネクションや、オレにできないようなバンドに対するケアをできる人達だ。その人達なりの別々の、作品を手掛ける際のこだわりも把握している。

バンドのセレクトに関してもまずは各プロデューサーに任せるが、ピザも一緒に考え、中にはオレがリリースを断ることだってあるかもしれない。しかし結果的に、最大限にそれぞれのレーベルの魅力を引き出せるようにやってみようと思う。

ホントは「せーの」で発表するのもアリかな?と思ったのだが、様々な事情を鑑みて、まず第一弾の Jun Gray Records 設立の発表となった。先述したように Jun Gray Records は当面は「ガールズ・バンド」に特化したレーベルにするようだ。Jun ちゃんはメンバーに男性がいようが、歌声が女性のものが好みらしい。

これを読んで「よし!ウチらもいっちょ!」と思ったガールズ・バンドの方々、女の子ボーカルを擁するバンドの方々、ピザに「Jun Gray Records 宛」でデモを送るか、Ken Band のツアー中に Jun ちゃんやツアークルーに直接渡すのも良いだろう(無料の大容量転送ファイルサービスを使う手もある)。思わぬ出会いがあるのを、オレも期待して待ってます(もちろんピザ・オブ・デス本隊の方もw)。

まずは Jun Gray Records のオフィシャル HP を用意するつもりだ。そこが発信塔になっていくであろうし、もちろん大元としてピザ・オブ・デスでもフォローしていきたい。

他の3レーベルの立ち上げに関しても、1発目のリリースの目処が立ち次第、順次発表していくことになると思うのだが…タイミングによってはこうやってオレのコラムで「誰をプロデューサーに立てての○○レコーズがスタートします!」とアナウンスできないかもしれない。

「どんなことになるんだろう」と興味を持たれた方、まずはピザ・オブ・デスのオフィシャル HP をまめにチェックしてみてください。

なにしろ、あと3レーベルありますから…。

オレ達ピザ・オブ・デスも空中分解しないように、社内的にそれぞれのレーベルをどういった形で進めていくのかは大きな課題だ。実際担当になる人間はヒヤヒヤものだろうが(猛爆)、オレはそれすらもワクワクしているし、全然心配していない。絶対に良いところに落とし込めるし、むしろ…楽しいことしか思い浮かばない。

CD が売れない時代だからといって、ピザは制作を止めない。

だったら今までにしてこなかったことも攻めの姿勢でやって、むちゃむちゃ楽しんでやりたい。

多少の難題や困難な場面はあるだろうが、結局楽しいことしか待ってない気がしてる。

 

 

「仲間」

これだけ日本中をライブして周っていると、お客さんの中でもいわゆる「常連さん」という感じの人達が多数出てくる(あまり「常連さん」という呼称は好きじゃないのだが、他に適当な呼び方が見つからなかったので、今回は敢えて使う)。

街や会場の大きさ、アクセスのしやすい街としにくい街、地域ごとに事情は異なるが、日本中あらゆる土地でのライブに来てくれる。もちろん全ライブ来てくれるわけではないし、オレが常連さん全員のことを認識しているわけでもない。

しかし、とにかく、追いかけてきてくれる。人によっては差し入れをくれたり、手紙をくれたり、…別に物をくれるからどうこうというわけでは決してないが、そんなやり取りをしている間に「顔見知り」になることもある。

何十回来てくれたか分からないような人もいれば、2~3回会っただけで顔見知りになる人もいる。年齢や性別も様々。

とても有りがたいことだ。

ある関東在住の男とは、仙台のライブハウスの前で話すようになった。たぶん Hi‐Standard の頃からライブに来てくれているのだろうけれど、知り合ったのは「Nothin’ But Sausage ツアー」だったはずだ。その彼はその後も仕事の合間を縫ってはオレを追う旅をしている間に、同じように追いかけてきてくれる女性と出会い、結婚した。今でも夫婦で、あちこちのライブに来てくれる。

オレは彼らが結婚したのを機に、「来れそうな日がありそうなら、ゲストで入れてあげるから連絡くれ」と言った。新婚はなにかと物入りだ。地方に見に行く交通費だけでもバカにならないのだから、せめてチケット代だけでも無しにしてあげようという、半ば好意でそう提案したのだが、やっぱりそれは気が引けるのだろうか…相変わらず自力でチケットを取って観に来る。不器用でバカだな、とも思うけど、それも逆に凄く嬉しい。

東北で「ガムテ一家」と命名した家族がいるのだが、ガムテで作った「助六」を幼い子どもに持たせて、ライブ会場にも持ってきてくれるのだ。ずいぶん昔から来てくれているが、そういえば Air Jam 2012 の DVD を御覧になっていただけたであろうか?Day 2 のステージ上、ギターアンプとベースアンプの前にメッセージ入りのスケートボードがずらりと並んでいるのを思い出せる方、それを作ってくれたのはガムテ一家とその仲間達だ。

そういえば「子どもが生まれるからしばらく来れない」なんて言った女性もいた。「あれ、あなた結婚してたの?」というくらいの感じだったのだが、つい最近ツアークルーが会場で見かけたと聞いたから、無事出産して戻ってきてくれたのだろう。旦那さんに怒られない程度に観に来てくれれば、とても嬉しい。

大阪在住の Razors Edge のギタリストのタカとは、Hi‐Standard の「Angry Fist ツアー」の岡山でのライブの時に知り合っている。タカは Razors と平行して Burl というバンドをやっているが、まだ Burl の前身バンドの頃だ。スペルが確かならば「Slug Go」というバンドだった。オレもそこまでは覚えてなかったが、タカ自身の証言によると、タカは当日ラジカセを持ってきて楽屋にいるオレを捕まえ、そのバンドの音源を無理矢理オレに聴かせたらしい。そしてオレは「これ、ハイスタやん」と言ったらしい(猛爆)。

いろんな連中と会えるのだ。

大袈裟に言うと彼らの存在は、自分の生きている証でもある。「彼らの中でオレも一緒に生きていってる」って思わせてくれている。

ライブに来なくても一緒に生きていってる人はたくさんいると思う。でもそれを可視化できるというのは、自分にとってはとても嬉しいことだ。

Ken Band には多くの常連さんがいるが、震災を境に、その顔ぶれがちょっと変わった気がする。やっぱりオレの打ち出す空気が、どうしても「震災、原発事故以降」のものだからだろうか、パッタリ顔を見なくなった人もいる。

まぁそれならそれでいいのだ。「震災後の健はなにか違う、良くない」「今の健のライブは自分が観たいもの、感じたい空気じゃない」ということがあったとしても、それはそれでいい。もしかしたら…仕事との兼ね合いや、いろいろな事情もあろう。

Ken Band は楽器だけ演奏するつもりは全くない。むしろ楽曲や演奏は二の次で(胸張って言うところじゃないかもしれんが…)、「今、目を逸らしちゃいけないことはなにか」、「オレ達はどう生きていくべきか」を一緒に考えたくてライブをやっている。伝えたいってよりは、オレもその場で一緒に考えたいんだ。オレも正解なんてわからない。むしろ正解かどうかはどうでもいい。考える姿勢を「持つのか持たないのか」が大事なんだ。

生きる話をするのだから、もちろん「命の話」にも触れる。オレは自分のことながらこう推測しているのだが…実はここが一番みんなが触れたいことなんじゃないだろうか。オレを追いかけてきてくれる連中は、みんな良い眼をしている。必死な顔をしている。一生懸命に生きているから、オレに会いに来てくれるんじゃないだろうか?

だから「震災後」に顔ぶれがちょっと変わり、そして実は増えているのだ。もしオレの推測が正しいとするなら、とても嬉しいことだ。

それこそ震災後、ライブで頻繁に目にする男が出てきた。歳はそんなにオレと変わらないであろう、坊主頭で眼鏡、見た目はあまりパンクスとは呼べない(失礼w)ような男が、必死でクラウド・サーフし、自分で作った日の丸を振り回してた。

2013年初頭のあるライブ後、会場を出ると彼が近寄ってきて、「癌と闘ってる健さんファンの友達のために、このTシャツにサインして欲しい」と行ってきた。オレはその彼が「しろちん」という名前だということしか知らない。しろちんの顔は恐ろしいほどマジだった。オレは快くサインした。正直言うと、こういう事例は山ほどある。全てを覚えているほど、オレの記憶も良くない。でもこのシーンはオレも強烈に覚えている。何故だかは分からない。

そのTシャツは「谷口晋矢」という男の手に渡った。谷口君が大きな喜びを綴ったブログを偶然見た。とても嬉しかったのと同時に、しろちんと谷口君はまだ会ったことがないツイッター仲間だとも知ってビックリした。それを機に(かどうかは定かではないが)、二人は親友になっていった。

Ken Band の常連さんの中でも、「谷口君を励ます」ことを中心に小さなコミュニティーなようなものもできてきて、仮にしろちんも谷口君本人もいなくても、「谷口君がどう」とか「今こういう治療をしてて」とか、オレにいろんな情報を教えてくれる人が増えた。

谷口君は2013年2月の横浜での「Best Wishes エクストラ・ショウ」は観に来てくれてた様だ。オレもツイッターで繋がり、「今度はいついつのどこに行きます!」なんて元気の良いメールを時々送ってくれた。

4月の沖縄での「This Is Your Land ツアー」に来ると言っていたのだが、ちょうどこの頃から抗がん剤治療が始まった。「行けなくなりました」と残念そうなメールが来た。

そしてようやくオレは知るのだが、彼は水泳選手でシドニー五輪にも出場していた。当時19歳だった彼は400メートル個人メドレーで8位入賞を果たした。

五輪に出場できる人は、スポーツ界でもほんの一握り。恐らく選手の中でも「怪物達」なのだろう。小さい頃からその競技に夢中で、努力することも、失敗することの大事さも知っているはずだ。彼ならきっと癌を克服する精神力を持っているはずだ。

そして、愛する奥さんと3歳の一人娘がいること。彼のブログを遡って読めば分かるが、大体が小さな娘との日々と愛情の言葉で埋め尽くされている。

オレなんか水泳のことはサッパリ分からないし、実際彼が五輪選手だったとかそういう事実は…そりゃ凄いことだとは思うけれど、自分の中では案外小さなことだった。

そんなように、何をしてる人だかも知らなかった彼を、なぜだかとても身近に感じるようになった。理由は全然分からない。「ご縁」というより他はない。

人の繋がりって本当に不思議だ。何十年も知り合いで何百回を顔を合わせた人でも、友達とは言えない人だっている。しかし、たった数回会っただけでその人を理解したつもりにさせられて、グッと入り込み、「友達」と呼べるようになる人もいる。

オレと谷口君は「友達」、いや「仲間」になった。

5月、Brahman のツアーに呼ばれ広島でライブした時、谷口君は楽屋に顔を見せてくれた。彼は三重県に住んでいて、当日はそんなに体調も思わしくなかったのに、わざわざ来てくれた。いろんな話を聞いてたし、本人ともやり取りしていたけれども、直接会うのは初めてだった。

身長が高く、肩幅も大きい。しかし明らかに「痩せ衰えて」いた。抗がん剤治療の副作用だから避けられないことなのだろうけれども…生々しく、痛々しかった。のどの方に転移をしていたので、声もちゃんと出ず、高くて弱々しいかすれ声だった。

Ken Band は観れたけれど、Brahman まで体力が持たないからと言って、大好きな Brahman も観ずに戻っていった。

8月6日、前回のコラムで書いたとおり、広島で Husking Bee、Hawaiian6 と「Eight Six」という企画に出たのだが、谷口君は奥さんと娘を連れて来てくれた。Ken Band の出番が終わり Husking Bee へのステージ転換中に、谷口一家は楽屋に会いに来てくれた。谷口君は抗がん剤治療のせいか、前回会った時よりも一層やつれていた。しかし目は輝いていた。表情も5月に会った時とは別人のように晴れやかだった。ライブが楽しかったらしく、興奮していた。そしてオレにこう言った。

「オリンピックに出て癌を患って…あまり普通の人がしないような経験をしてると思うんです。だから、絶対に癌に打ち勝って、同じように癌と闘っている人達のために、日本中を講演して周りたいんです!」

オレは「いいじゃない!きっとそれが役目なんじゃないかなぁ。そのためには絶対に克服しないとな」と答えた。奥さんは隣で笑顔を浮かべて、彼の夢を聞いていた。

彼は興奮して仲間のことも話し始めた。「ライブハウスってホントにすごいですね。知り合った仲間がみーんな優しくて!彼らがいることがどれだけ支えになっていることか!もっと前からライブハウスに出入りしていれば良かったって思うんですよ!」

そして「健さんとも…なんだか昔っからの知り合いのような気がするんですよ!」、オレも即座に「オレもそうなんだよ。全く同じことを感じてるよ!」と答えた。

もうすぐ Husking Bee が始まるからフロアに戻る谷口君に、「オレはまたもらえるから。それにはいろんな人のとんでもない量のパワーが宿ってるからさ!」と、いつも左腕に付けている白の「東北ライブハウス大作戦」のラバーバンドをあげた。彼は喜んでフロアに戻っていった。

9月に入り、オレはまた「調子はどうだい?」とメールをした。9月3日の朝に「最近は調子が不安定で、少ししんどい日々が続いてるけど、頑張ります!」と返信があった。

9月5日、Ken Band は昼過ぎにスタジオに集まった。スタジオに着くと Jun ちゃんが「谷口君が亡くなったってよ」と教えてくれた。自分でもツイッターを開けると、日本中の彼の仲間達から、無念の報告が多数届いていた。

谷口晋矢、9月4日逝去、享年32。

最後のメールからほんの十数時間後には逝ってしまったんだ。

しろちんに頼んで電話番号を教えてもらってかけたら、奥さんが出た。「なんにもできないけど…」と言ったら、「いいえ、健さんが生き甲斐でした」と言ってくれた。

そこで結構ビックリすることを聞いたのだが、実は「Eight Six」の前日に検診があった。そこで、奥さんは「余命宣告」をされていたらしい。本人には伝えなかったそうだ。その時、夢を語る谷口君の横の奥さんの笑顔は、笑顔じゃなかったんだと初めて分かった。でもそのライブがとても楽しかったらしく、「行って良かった」と言ってくれた。

しろちんも、「奥さんとも話したけど、『どれだけ Ken さん、ピザクルーのお陰で笑顔になれたかって。最後のライブになった広島、行けたのが奇跡だったって。ぐっさん足が靴履けないくらい腫れ上がって。でもあんな笑顔、最高の笑顔の彼を見れて本当に行って良かった』って」と報告してくれた。

…最高の奥さんじゃないか。

告別式の出棺では「I Go Alone」を流したらしい。「一人じゃないのに…バカだなー」とオレは思った。しかし、この曲をチョイスしたのには理由があった。水泳選手名鑑に載った際、「好きなアーチスト/曲」の欄に「I Go Alone/Ken Yokoyama」と書いてあったのを、奥さんが強烈に記憶していたらしい。闘病中もこの曲を聴いて自分を奮い立たせていたと聞いた。

オレは常々、「ミュージシャンとして一番嬉しいのは、自分の曲が人の人生に寄り添えること」と話している。

こんなに生々しい話を聞いたら胸がつまるが、オレはつまらせてる場合じゃない。言い方は変だが、これを目指して、こうなることを引き受けてやってきたんじゃねぇか。

2009年に書いた「Let The Beat Carry On」の一節に、オレはこう書いた。

そして オレが死んだら
あとは お前次第だ
まるで 心臓が大きく鳴っているかのように
ビートを繋ぎ続けるんだ
まるで命を繋ぐかのように
ビートは死なせるな

この曲はオレの想いや意思を「ビート」と表現しているのだが、オレが先に死ぬことを前提に歌っている。でも一人の仲間が先に逝ってしまった。

オレが、あるいは他の仲間達が谷口君から託されたものがきっとあるはずだ。今はそれが何かまだ分からないけれど、絶対にある。なにも見つからなくても、なにか託された気になって、それを繋いで行こうじゃないか。

後は任せろ谷口君。

癌と闘うのにも疲れただろうから、少し休んでくれ。

休むのに飽きたら、体は無くとも、またオレ達と一緒に歩んでいこうぜ。

 

 

最後に話は逸れるが、オレのところにはいっぱい重い病にかかっている人からの話が届く。機会があったり縁があると感じた方々には、オレからも連絡を取ってみたりしている。

良い方向で考えれば、病気は縁を作ってくれるし、関係を深くしてくれるものだ。そしてそれを乗り越えた時に、ライブハウスで会えれば、ミュージシャン冥利に尽きる。

なんの足しにもならないオレでよければ、聞ける話はいっぱいある。

2013.09.13

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