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フリーライター石井恵梨子の
酒と泪と育児とロック

Vol.3

9月は東北に行ってきました。もちろんAIR JAM2012を見るために。チケット購入の手続きからシャトルバスの大混雑に至るまで、お客さんにとっては非常に厳しいハードルがあったと思うけど、会場内にいる時は心から感じました。どこまでもピュアな夢があるフェスだなぁと。そうして思い出したのが、今から15年前、1997年の夏でした。

でもごめん、これはAIR JAM第一回目ではなくフジロックの話。メロコアよりもヘヴィロックが好きだった私は当然のように思ってましたよ。ハイスタより断然レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンっしょ!(正直者ですいません)。だけどフジロックに寄せる期待は、レイジやレッチリにプロディジーといった出演者のメンツだけじゃなかった。初めて日本で行われる本格的な洋楽フェス。それ自体が夢でした。本当に憧れでした。

20代の人には信じられない話だと思うけど、フェスって本当に遠い異国のカルチャー、だけどロックファンなら死ぬまでに一度は行ってみたいもの、だったんです。当時の洋楽雑誌には「憧れのグラストンベリー、夢のレディング、何泊何日のUKツアー。なんとびっくり35万円!」みたいな旅行会社の広告をよく見かけたくらい。フジロックは高いとの声を今もよく聞くけど、97年当時は19歳の私でさえ全然そう思わなかった。憧れ続けた海外の夢が遂に日本にやってくる! 本当にそれだけで充分でした。そういえば「海外の夢」なんて言葉も久々に書いたなぁと今気づくわけですが、洋楽および海外に過剰なロマンを持てた最後の世代が90年代の我々だったのかもしれない。長くなるので、この話はまた別に書きます。

さて、初のフジロック。会場は山梨県にある富士天神山スキー場。チケットが高いと思わなかった私も、やはり貧乏な学生だったので、学校の友達がよくつるんでいたバンド仲間のさらなる音楽仲間の知り合いが近くの河口湖に別荘を持っているらしい、という話に飛びつきます。知り合いの知り合いだから要するに全然知らない人なわけで、集まってくるのも半分以上は初対面。そいつらとザコ寝でオッケー!って今は絶対言えないですよ。それくらい若かったし後先考えてなかったし、とにかく浮かれていたんですね。世間知らずの19歳女子が浮かれるとどうなるかってね、夏だしリゾート気分、チューブトップと短パン、足元ビーサン、以上でーす、っつう軽装。……馬鹿じゃねぇの? 今の私なら迷わず言います。えぇ、完全無欠の馬鹿でしたとも。

もはや伝説として語られるように、当日は台風直撃。明け方東京を経った時は車内でみんな浮かれまくっていたけど、寂しい山道(知らない人の別荘から出発するので、シャトルバスの流れとは道が違う)を40分ほど歩き続けるうちに、この格好はまずい、とだんだんわかってきました。一軒だけあるコンビニで薄いレインコートを買う以外は打つ手なし。曇り空から雨になった頃に会場到着。それでも乾杯してはしゃぎました。土砂降りのフー・ファイターズでモッシュピットに飛び込んだこと。暴風雨になったレイジ直前のサウンドチェックで「すっげー歪んでる!」と笑いあったこと。なぜかライヴの記憶は曖昧なんだけど、そこだけは今も鮮明に覚えています。で、トリのレッチリ。止まない豪雨に疲れ果て、音楽にノって暴れているのか必死に飛び跳ねて体を温めているのか自分でもよくわからない状態だった気もします。だけど、それでも楽しかった。嬉しかった。まだまだ醒めない夢の中にいた。

さて、帰り道。最初大勢いたはずの仲間は雨に負けて少しずつ帰っており、最後までレッチリ見ると意地を張った私のほか二人だけになっていました。シャトルバスの行列を尻目に、彼らとまた40分かけて別荘に戻ります。でね、考えてみれば当然だけどそれまで知らなかった事実として、山道ってすげぇ暗いの! 会場の照明が遠ざかれば遠ざかるほど、本当に人里離れた森の中にいるのだ、周りには誰一人いないのだ、という実感がひしひしと湧いてきます。共に歩くのは初対面に近い人たちで、戻りたいのは昼間にチラッと寄っただけの記憶が曖昧な場所で。もう罰ゲームみたいな話ですが、心がくじけぬよう、ことさら明るい話を続けながら歩いたものです。ここで迷ったら誰も発見してくれないまま死ぬのかも……と思いながら。

本当に怖かったのは、それまで静寂しかなかった道に突然自転車が現れた瞬間でした。今思えばそこは河口湖の別荘地。夏だから他にも人がいて当然なんですけどね。無人の山中に捨てられた気分でいた我々はそんなこと考える余裕もなかったから、ゆらゆら走ってくる薄暗い光を見た時はマジで幽霊だと思いました。みんな大絶叫。そこからは怖いので手をつないで歩きます。歌でも歌おうと元気を出して。当時のアメリカの最高峰アーティストが並んだフジロック初日。彼らの熱演を目の当たりにしてきた我々が歌ったのは……なんだと思います? 「ぼーくらはみんなー生きているー」でした。本気で歌いましたとも。ミミズだーって、オケラだーって、アメンボだーってー。これが、97年の夏の一番の思い出です。

恥を忍んで初めて書いた話です。馬鹿みたいでしょう? でも今でも覚えてる。思い出して苦笑すると同時に心のどこかがほわっと緩む感じがする。前述したように、レイジの曲順がどうだったか、レッチリがどんな演奏だったかなんて正直忘れてしまったけれど、あのとき必死で歌った「手のひらを太陽に」だけは強烈に覚えています。もちろんこれは馬鹿話のひとつでしかないんだけれど、短い人生において本当に強烈に残るものは、実は音楽そのものじゃないんだろうな、という気がするのです。

今年のAIR JAMで見た、あまりにも豊かな表情の数々。傍から見れば馬鹿じゃねぇのと笑われそうなオッサンの浮かれ顔や、ほとんど泣いてるように見える子連れ夫婦の笑顔、ひとつの曲が鳴らされた瞬間に顔を見合わせて「わーっ!」と叫んでいたカップルの表情を、ずっと覚えておきたいと思いました。たとえ私が忘れてしまっても、彼らが何年経っても覚えているのはその瞬間だと思う。その場所でしか味わえなかった、その場所で誰かと確かにわかちあった、ひとつの強烈な感情。そこにはバンドの演奏の善し悪しで語れない価値がある。それを書きたいと思い、この二日間はステージを見るのと同じくらいの時間をかけて集まった数万人の顔を見ていました。時にはいきなり話しかけちゃった人もいたので、この場を借りて言いますね。突然申し訳なかったです、ありがとうございました。

最後に真面目な話。昨今の音楽雑誌ではライブレポート記事がずいぶん減りました。ライヴ終了直後からネットに感想がアップされるから、それは当然かもしれない。で、同時に増えたのが音楽系サイトにある最速レポート。一曲目はこれ。まずはこんなMC。中盤はあの曲とこの曲が続き、中盤のMCはこうで、最後は代表曲の連打で大団円、みたいなやつ。もちろん需要はあるんです。ツイッターで教わったことだけど、セットリストとMCをまず最速レポで確認し、それを見ながら自分で感想を書くブロガーが非常に多いそうで。なるほど。でも、ただMCと曲順を羅列した原稿は決して音楽評論ではない。少なくとも音楽ライターがやるべき仕事じゃないんです。

単独ライブならともかく、大勢が集まるフェスティバルは、普段は交じり合うこともない数万人規模の音楽ファンが何かを共有できる唯一の場所でしょう。そこに何があったのか。みんなが何を感じ、そして私自身は何を見たのか。主催者側の「届け!」と「繋げる」を、さらに広く「伝えて」いくのが音楽ライターの仕事。AIR JAM2012の長いレポートは10月10日発売の「ローリングストーン」に掲載予定です。よければ読んでくださいね。

2012.10.17

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