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フリーライター石井恵梨子の
酒と泪と育児とロック

Vol.26

新春早々、ボウズが入っているサッカークラブの「親子大会」なるものに参加してきました。親子ペア3組・6人ずつでいくつものチームに分かれ、校庭を6分割したミニコートに散らばる。そして8分間の試合を3回行う。

内容はこんなもんです。いや、改めて書き出してみたときの「こんなもん」具合、なんてことのなさに驚いてしまうんだけど……こ・れ・が・も・う! 死ぬほど疲れた。前代未聞の筋肉痛になり、こうしてコラムに書き残しておこうと思うくらい深刻なダメージを受けました。夜な夜なライブハウスで踊ったり跳ねたり首振ったりしてるので、わりと体力はあるつもり。でも、当たり前ながら体力と運動能力はまったく違いますね。走れないにも程がある!

そしてまた、40代になると、思うように体が動くイメージと、現実の動き方が若干違ってくる。「こう動け」という脳の司令を、最初は必死に受け止めるんだけど、だんだん左足がテンパって「なんかもう今のスルーでいいっすか?」、それを見た右足も「自分どうすればいいのかわかんなくなりました!」。窓際のオッサンとゆとり新入社員みたいなコンビです。3試合目くらいになると、もはや全然コントロールできなくなります。ボールが、じゃなくて、自分の体を。終わったあとは白目剥きかけたゾンビ状態になっていましたね。

正直、サッカーに興味を持ったことがなく、何が面白いのかもさっぱりわからない。ただワラワラとボール追っかけてるだけじゃんか、ぐらいに思っていましたが、いやぁ、45分間もボールを追って走れること自体が素晴らしいのですね。そしてまた、「ほんとに45分だっけ?」と気になって調べたらサッカーは前半と後半に分かれていて、トータル90分もあるハードな勝負なんですね! あはは。こんなことに「!」をつけられるくらい今までスポーツに無縁で無知だった。恥の多い生涯を送っていますね。

さて本題。無縁ゆえに驚くことがけっこうあって、このサッカークラブのコーチ、別に厳しくはないんですが、とにかく声がでかい。そして何事も命令口調。練習中は「はい水分補給! 急げぇ!」と急き立て、練習が終われば「はい着替え! 二分以内!」。着替え終えたら最後に集合しますが、そこでも「帽子取れぇ!」と怒号を飛ばし、選手に一礼をさせる。……は? と思いました。なぜ「◯◯しましょう」と言わないのか。なぜ着替えの時間まであなたが決めるのか。そもそも帽子取るって何? なんのために? 

ここが「わかる」と「わからない」で大いなる断絶があるのだと思います。体育会系を一度でも経験した人は「そんなの当たり前だ」と感じるでしょう。実際、この話を元野球少年だった知人編集者にしたところ「当たり前っすよ。そもそも練習前はグラウンドに一礼ですよ?」と真顔で言われました。え、グラウンドに礼? そこに誰がいるの? 何に挨拶しているの? 私にはわからないことだらけです。あと帽子に関しては男女差もあるかな。女性は基本「挨拶のときに帽子を取れ」とは言われないし、むしろ帽子込みでファッションが成立していたりする。映画館とか劇場とか、誰かの視界を邪魔する時に限って脱ぐのがマナーという感覚なので、屋外で行われるサッカーの練習で毎度毎度「帽子取れぇ!」と大声の響いていることが理解できないのです。

で、これ、なんで? 誰か的確に答えられますか。帽子取って一礼しているボウズはもちろん、指示しているコーチもおそらく説明できないと思うんですね。しいて言うなら「そういうものだから」。もちろんルーツを調べていけば、軍隊の規律の話が出てきたり、ヨーロッパの宗教観や対人マナーが絡んでいるとわかりますが、私が知りたいのは少年サッカークラブの最後の挨拶に限った話です。誰もが「なんで帽子取るって……そういうもんでしょう」くらいのことしか言えないんじゃないかなぁ。意地悪な気持ちではなく、私も思い当たるな、という実感を込めてそう感じます。

たとえばバンドの世界。音楽は疑いようもなく文化・芸術の一環であるにもかかわらず、バンドマンたちは「バンドマンだから」という理由でやたら上下関係を重視したり、先輩の酒は断らない、みたいな体育会系ノリに走りがちです。もちろん全部が全部そうとは言わないけど、親しいバンドマンの立ち居振る舞いを見ていると「そういうものだから」の不文律、常識、関係性がたくさんある。そして、そのことを「おかしい、なんで? 説明してよ!」と思ったことがないんですね。なぜなら私はそのバンドたちが好きだから。好ましく思うもの、素敵だなと思っている世界の出来事は、いくら理不尽でもスルッと飲み込める。人間の脳みそってそういうふうにできているみたいです。

私はサッカーを素敵だと思ったことがないから、初めて出くわした「帽子取れ」のシーンに疑問を持ったけど、同じように、ロックにまったく興味がない人は「上下関係? バンド活動になんでそれが必要?」と思うでしょう。たぶん、冷静に考えれば特に必要はない。私たちがそれぞれに抱いている「そういうものだから」は、案外脆いし、びっくりするくらい根拠がないんですよね。

先ほど登場した、グラウンドに一礼する野球少年だった編集者。彼と話を続けていて爆笑しました。30代前半、途中からゆとり教育に切り替わった世代。それまでスパルタだった野球部は、彼の代から「練習中に水を飲んでも良し」と教えが切り替わったそうです。今では信じられないけど、昔の運動部って、厳しければ厳しいほど「練習中に水を飲むのは禁止」が常識だったんですよね。精神論とか根性論だけでなく、なんとなく、大量に水を飲むのは危険、体のために言っているのだ、という空気すらあった気がします。だから面白くないのは「そういうものだから」と言われ続けてきた彼の先輩たち。ある日いきなり常識が変わって、一学年下の後輩がガブガブと水を飲みだしたのがまったく面白くない。「めっっちゃくちゃ文句言われましたよ」と苦々しく振り返りながら、「でも先輩の言うことは絶対なんで!」とさわやかに笑う彼の姿を見ながら、やっぱり体育会系ってよくわかんねーなー、と思ったのでした。

「そういうものだから」はある日突然変わります。当たり前がナシになり、時には非常識になるかもしれない。昭和初期の人たちが今の私たちと同じように日々の生活を楽しんでいて、満州事変が起こった後も「さすがにアメリカと戦争はないでしょう」と考えていたと聞くと、ちょっと驚きません? でもだんだんと「翼賛」「非常時」「節米」という言葉が常識になっていき、気づけばとんでもない大戦に巻き込まれていた……。大好きな小説『小さいおうち』(中島京子著)の概要ですが、最近また読み返して思いましたね。「そういうものだから」は、脆い。跡形もなく崩れ去る。どんな場所、どんなシーンにおいても、これを心がけておくのは大事な気がします。いまの世の中を見ていると尚のこと。

大変ご無沙汰のコラム。2019年はもう少し頻繁に書こうかと思います。最後になりますが、今年もよろしくお願いします。

2019.01.16

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