そして何より、ライブハウスではいろいろな人と知り合えた。「小林マサアキ」という人と知り合って仲良くなった。彼は横浜のハードコア・バンド Systematic Death の元ドラマーで、オレが知り合った時は Bastard というハードコア・バンドでドラムをプレイしていたハズだ。ちなみに現在は Rocky and the Sweden (活動停止中ではあるが)のドラマーである。その「マサアキ君」が掛け持ちでやっていた別のバンド One Tracks とオレのバンドが対バンした。その One Tracks の、オレより2つか3つ年上のドレッド・ヘアーのギタリストのプレイに、オレは圧倒された。彼にライブ後の打ち上げで積極的に話しかけ、圧倒されたコトを本人に素直に話し知り合いになった。その後 One Tracks とは数本一緒にライブを演ったが、いつの間にか活動停止してしまった。
 その One Tracks のギタリストが高杉大地、後の Beyonds のギタリストだ。

 オレもその頃演っていたバンドが行き詰まり、解散した。しかし運良く、間を空けずに新バンドを結成できた。Hi‐Standard、1991年の話だ。
 当時4人組だった Hi‐Standard の最初のライブは、ボーカルが彼のコネクションで話を持ってきた。91年10月、高円寺20000Vでの5バンド出演の企画の1番手ブッキングされ初ライブをした(ちなみに1曲目は Damned のカバー、「Fish」だった)。
 その日のメンツが凄かった。God's Guts、Scamp、Bloodthirsty Butchers、そしてトリが Beyonds だった。
 先述した通り。ライブハウスは冬の時代だ。どんなに良いメンツを揃えてもお客さんが入らない、どうにもならない時期だった。それにも拘らず、この日のライブには約200人ほどの人が押し寄せ、凄まじい熱気だった。信じられない光景だった。そしてこれだけの人を惹きつけていたのが、他ならぬ Beyonds だった。

 彼らは運が良い部分もあった。恐らく Beyonds も結成が1991年初頭のハズだが、結成していきなり Snuff の初来日公演のサポートに抜擢されたのも、周りの注視を浴びるには充分過ぎるほど大きなトピックだった。そして Nukey Pikes や Volume Dealers、Slum Pirates 等、USハードコアに影響を受けたバンド達と合流し、人気のあるシリーズ・ギグに参加するなど積極的な活動を展開出来ていた。
 まぁそんな運を力に変換していたのは、彼ら自身であるコトは言うまでも無い。
 実際、高円寺でのパフォーマンスも、凄まじかった。複雑な構成を持ちダイナミックな曲、ブ厚いサウンド、何かにとり憑かれたかの様な激しい動き…、完全に洋楽指向の全く新しい存在だった。そしてオレは何故だか、「このバンドはお客さんに大切にされている」と、痛切に感じた。冬の時代に現われた救世主、そんな愛され方をされている様に見えた。あながち見当違いではなかったであろう。大切にされるに値する存在感だった。それが悔しいほど羨ましかった。オレも「あんなライブをしたい」、「あんな存在になりたい」と思い、目標にし憧れを持った。
 そのライブからしばらくして Beyonds 近辺にコネクションを持っていたボーカルが脱退、すっかり一緒にライブをする機会も無くなってしまった。彼らの視界に入って行きたくても、全然相手にされなかった。それでもオレは、ひたすら彼らの背中を追い続けた。

 93年初頭、Beyonds は大傑作1stアルバム「Unlucky」をリリースした。当時は「メジャー・デビュー」でもしない限り、単独でアルバムなど出すのが難しい時代だった。需要なども全く無い様に思えた。しかし伝聞で、「もう2000枚売れてる!」とか「Nukey Pikes と北陸ツアーに行った!」という情報が、オレの耳にも届いた。これは凄いコトだった。全国区を意味した。「あの人達は、もう一生音楽やっていける環境を手に入れたんだろうなぁ」と思わせる、破壊力のある情報だった。…書き間違いではない。2千枚だ。2万枚ではない。たった2千枚でも、オレにとっては天と地がひっくり返るくらいの、とんでもない数字だった。…もうすっかり、オレの手の届かない場所まで行ってしまったかの様に感じた。

 Beyonds の活躍とは裏腹に、オレは煮詰まっていた。22歳だったと思う。ちょうど4年制の大学生なら卒業する時期だ。そんなコトもあり、家庭の事情もあり、「このままバイトしながらバンドをやっていても、別にプロになるワケでもあるまい。それならば手に職をつけよう」と思った。偶然カメラマンのアシスタントの仕事を紹介され、トライしてみた。この仕事、簡単に言えば雑用で、毎日何時に終わるのかサッパリ見当のつかない仕事だった。なのでバンドの練習の予定も立たない。ライブなど絶対に入れられない。
 物理的にバンド活動が不可能になっていたので、オレはメンバーにバンドを辞める意思を伝えた。結局辞めなかったのだが、ライブ活動は完全にストップしてしまった。

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